2010年2月27日土曜日

『鬼貫のすすき』永田耕衣著

2006年12月23日12:10

『鬼貫のすすき』永田耕衣著を都立図書館から借りた。第一章「鬼貫の薄」には、31才に詠んだこの句の意味が、58才の時に書いた『独ごと』に載っているとしている。

  面白さ急には見えぬ薄哉   鬼貫

鬼貫『独ごと』下
「薄は、色々の花もてる草の中に、ひとり立てかたちつくろはず、かしこからず。心なき人には風情を隠し、心あらん人には風情を顕はす。只その人の程々に見ゆるなるべし。みの笠取もとめて行けん人の、晴間まついのちの程もしらじといひけん。道のこころざしはかくおもひ入なんこそ有がたけれ。」

追悼句
  急に見えず急に見えたり花薄 秀鏡

さしずめ、私は。
  面白さ急には見えぬ薄の句  春蘭


鬼貫の玉石混淆、自由奔放諧謔と本格正当風、悟臭の句を評釈してやがて、鬼貫の卑俗性と談林風の句風に話が及ぶ。後半は、その流れで鬼貫に特に関係なく談林、其角、滑稽、恋愛俳句へ展開していく。

永田耕衣氏は鬼貫の生涯の考証は苦手としもっぱら大好きな鬼貫の句の評釈に徹する。

「鬼貫においては悪句も秀句たり得る」とまで持ち上げるが、「芭蕉より鬼貫の仕事はその質において劣っていると思う」とか「鬼貫はその作品価値においては芭蕉に及ぶべくもない」とすとんと落とす。(こころの声:どうしてとは言わないのはなぜ。みんながそう言っているからではないでしょう? 芭蕉の名句とされる句をたとえば芸術的な作為の句と酷評するひとはいないのかしら。)

談林風雑談の最後に、金言が。
「卑俗性を否定していたずらに高邁な詩を夢みるよりも、どこまでも現実生活の卑俗性を愛用起用するならば、その卑俗性の背後底辺にこそ高邁性が地下水のごとく流れていることを知るであろう。高邁詩的な神秘を包容するもの、それこそが伝統を誇っていい俳句における卑俗性(体質)なのである。」

  海棠の鼾を悟れねはん像    其角
  谷水や石も歌よむ山ざくら   鬼貫
  
「とかく句は磊落なるをよしとすべし」と蕪村が其角を讃評したことを紹介し、鬼貫もふくめて蝸牛の句を並べる。

  蝸牛角ふりわけよ須磨明石   芭蕉
  鎌倉やむかしの角のかたつぶり 其角
  我昔ふみつぶしたる蝸牛    鬼貫
  点滴に打たれてこもる蝸牛   蕪村


永田耕衣氏の鬼貫、其角、談林好きはよくわかった。卑俗で自
由奔放、豪放磊落。以下の句の背景もよくわかった(^^)

  炎天や十一歩中放屁七つ    耕衣

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