2012年6月17日日曜日

連句に於ける新しさの在処

連句に於ける新しさの在処 ー応じ方ー
 in 能勢朝次『連句藝術の性格』

 連句に於ける新鮮な感興を惹起するには如何にすれば良いであろうか。
其の点を考へると、発句に於ける新鮮味とは甚しく其の性格を異にする
事が感じられる。発句に於ての新しさは、作者と作者の対する対象との
関係に於て存在する。つまり作者が、自然なり人事なりを凝視して、そ
の自然又は人事の中から、他人の言ひ古していない所の新詩趣を探り取
って来ることが、俳句に於ける新しさである。俳句に写生などが勧めら
れ、写生によって新生命が得られたのも、こうした立脚地に立つもので
あったが故である。新しい対象を発見し、その把握の仕方と表現の仕方
に、個性的な味はひを出す事が出来れば、俳句としてはそれで十分なる
新味を獲得したものと認められるのである。

 然るに、連句の感興は、前句といふものに対して、巧妙に応ずる所が
眼目である。従って、新しさといふものは、前句への応じ方に存しなく
てはならない。自己の独創なり個性味なりを主張する点にはなくて、自
己を虚にして前句を受け入れ、自己に宿った前句の余情を噛み分けて、
その余情に対して応じて行く行き方に新味が求められる。従って、付け
た付句自身には、別に素材着眼に新しい所がなくとも、前句との関係に
於て新しさがあれば良いのである。支考が「付句は句に新古なし、付る
場に新古あり」といひ、蓼太が其の一例として「弁当と先へ来ている按
摩取」といふ前句に「しづ心なく花の散るらん」と付け示したなどは、
最も端的に此事を言ひ切ったものである。 ...

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