去来抄 日本名著全集 江戸文芸之部第二巻 芭蕉全集
魯町曰。俳諧の基とはいかに。
訳:魯町が言った。「俳諧の基(もとい:基礎・土台)とはなにか?」
去來曰。詞にいひがたし。凡吟詠するもの品あり。歌は其一なり。其中に品
あり。はいかいは其一なり。其品々をわかちしらるゝ時は、俳諧連歌はかく
のごときものなりと、おのづからしらるべし。
訳:去来が言った。「一言では言いにくい。おおよそ吟詠する詩歌にも
種類がある。和歌はその一つだ。その中にも種類がある。俳諧歌は
その一つである。その種類を分けてそれぞれが理解できた時に、俳
諧の連歌とはこういうものだと自然にわかるだろう。」
それをしらざる宗匠達はいかいをするとて、詩やら歌やら、旋頭・混本歌や
ら知らぬ事をいへり。是等は俳諧に迷ひて、俳諧連歌といふ事を忘れたり。
訳:「それ(俳諧の連歌の詩歌における成り立ち・位置付け)を知らな
い宗匠達は、俳諧をすると言って漢詩やら和歌やら、旋頭歌、混本
歌やらわけのわからぬことを言っている。これらは俳諧という言葉
に迷わされて、俳諧が俳諧の連歌だということを忘れてしまったの
だ。」
俳諧をもて文を書ば俳諧文なり。歌をよまば俳諧歌なり。身に行はゞ俳諧の
人なり。唯いたづらに見を高くし、古をやぶり、人に違ふを手がらがほに、
あだ言いひちらしたるいと見苦し。
訳:「俳諧の心(滑稽、おかしみ、戯れ)をもって文章を書くならば俳
諧文である。俳諧の心をもって和歌を詠むならば俳諧歌である。俳
諧の心をもって行動するならその人は俳諧の人である。ただ無駄に
考え方を高慢にし昔からのやり方を破り、他人と違うことを自慢顔
にいいかげんなことを言い散らしている輩がいるがとても見苦しい。」
かくばかり器量自慢あらば、はいかい連歌の名目をからず、はいかい鐵炮と
なりとも、亂聲となりとも、一家の風を立てらるべし。
訳:「それほど自分の才能が自慢ならば、俳諧の連歌という名前を借り
ずに、俳諧鉄砲とでも、乱声(らんじょう)とでも名付け、俳諧の
軒を借りずに一家を立てるべきであろう。」
コメント:
『去来抄』の修業教の冒頭に不易流行と並んである一文である。芭蕉の在世
当時から本分を忘れたあやしい俳諧もどきが横行していたようだ。
●「俳諧は上下取り合わせて歌一首と心得べし。」支考『芭蕉翁二十五箇条』の第一条で心は去来抄の一文と同じである。以下の記述も同様である。
●「俳諧もさすがに和歌の一体なり。句にしをりの有るやうに作るべし。」(去来抄)
●「発句の脇は歌の上下(かみしも)也。是を連ねるを連歌といふと云。一句一句に切るは長くつらねんが為なり。」(去来抄)
●「俳諧は歌なり。。。和歌に連歌あり。俳諧あり。。。古今集にざれ歌を俳諧歌と定む。是になぞらへて連歌のただごとを世に俳諧の連歌といふ」(三冊子)
現代の連句界はとながめてみると、俳諧は俳諧の連歌で二句で短歌になるよ
うに詠むことを忘れた、温厚な去来が思わず怒りをこめて言った俳諧鉄砲や
乱声の輩の末流が跋扈している感がある。
参考: 連歌とは
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