現代のいわゆる俳壇には事実上ただ発句があるばかりで連句はほとんどない。子規の一蹴によってこの固有芸術は影を消してしまったのである。しかし歴史的に見ても連俳あっての発句である。修業の上から言っても、連俳の自由な天地に遊んだ後にその獲物を発句に凝結させる人と、始めから十七字の繩張りの中に跼蹐してもがいている人とでは比較にならない修辞上の幅員の差を示すであろう。鑑賞するほうの側から見ても連俳の妙味の複雑さは発句のそれと次序を異にする。発句がただ一枚の写真であれば連俳は一巻の映画である。実際、最も新しくして最も総合的な芸術としての映画芸術が、だんだんに、日本固有の、しかも現代日本でほとんど問題にもされない連俳芸術に接近する傾向を示すのは興味の深い現象であると言わなければならない。
参考文献:
(1)
青空文庫 俳諧の本質的概論 寺田寅彦
(2) うわづら文庫 連句藝術の性格 能勢朝次
第一章 連句研究の現代的意義 第一節 一対三十五において引用
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