2010年5月12日水曜日
芭蕉 —「かるみ」の境地へ
田中善信『芭蕉 —「かるみ」の境地へ』中公新書
副題に惹かれ読んでみた。かるみとは俗談平話の平易な表現とするだけで、かるみについての考察の深さや新しさはなかった。
知らなかったことでは、「荘子」は談林俳諧にバイブル的に読まれ引用された。しかし自分たちの荒唐無稽さの正当性を「荘子」の寓意的な話に求めたに過ぎないとする。
一方、芭蕉は談林の俳諧師のときは同じだったが、仏頂などから禅の手ほどきを受けてからは、「荘子」を禅(大乗仏教)の教えをわかりやすく説いたものとして接したとある。なるほど。
発句 詩あきんど年を貪ル酒債哉 其角
脇 冬湖日暮て駕馬鯉 芭蕉
・・・
16 芭蕉あるじの蝶たたく見よ 其角
17 腐レたる俳諧犬もくらはずや 芭蕉 両吟歌仙「詩あきんど」
23歳の新進気鋭の其角が仕切った『虚栗』にある芭蕉との両吟歌仙「詩あきんど」。この詩あきんどとは誰のことか、腐れ俳諧は誰の俳諧かを考えると面白過ぎる。著者の解釈は、詩あきんどは杜甫のこと。腐れ俳諧は芭蕉の卑下で芭蕉の俳諧としている。
私は、詩あきんどは芭蕉、腐れ俳諧は其角や其角が傾倒する西鶴の俳諧のことで、其角と芭蕉はつい本心が出て歌仙でやりあっているのだと思う。
16の蝶とは「荘子」の胡蝶の夢の蝶のことで、「荘子」を象徴している。この句の意味は芭蕉庵の主、芭蕉は、禅をたしなみ今や「荘子」の教えは会得し切っていますよと言っている。表面的には持ち上げているが、心は逆で、其角の芭蕉への皮肉だと思う(^^)
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