(再掲) #jrenga 連歌 俳諧 連句
捌き不自在の宗匠は、不安ゆえ式目をかき集めそれを金科玉条とし、その僕べとなる。捌き自在の宗匠は、式目を目安と考えそれを僕べとする。前者は貞門や芭蕉没後の田舎蕉門系。現代連句会の大半は前者か。後者は芭蕉のみ。真似すべきは芭蕉流だ。
不夜庵「式目は変化を生成させる手段であり連歌の目的とするところではない。」全く同感。芭蕉翁二十五箇条には【一句の好悪を論じて、指合は後の詮議なるべし。】とある。一句の好悪とは作がいいかわるいかということではなく、前句から付句がどれだけ転じ変化しているかということである。
前句から転じた好い付句をしていれば、たとえば打越に猫が居るとき付句で鼠を詠んでも生類の打越を咎めない。反対に前句の情に引きずられた悪い付句は、趣向がいくら打越とかけ離れていて式目的に問題なくても付句を咎める。
世間一般の宗匠はいきなり式目からみて打越をとがめ面白い付句を没としてしまう。 前句から転じた好い付句であれば、式目は吹っ飛ぶということである。
真の芭蕉門においては、前句を転じる妙法(余情付け、疎句付、見立て替えなどを指すか)により、機械的に変化をつけようとする式目は吹っ飛ぶ。要するに式目による他力から、自分の付け方による変化自在という自力への昇華である。
三冊子【格は句よりはなるる也。はなるるにならひなし。】
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