2012年10月23日火曜日

芭蕉の連句の発句


連句の発句は立句とも呼ばれる。芭蕉の立句は軽さと挨拶性があるとされる。連句に使われない独立したものを地発句と呼ぶ。地発句は後の俳句に近く重厚で主情的とされる。必ずしも両者の境は明確ではなく微妙と思われるが、連句の発句を詠む時は、座を意識しくれぐれも重く主情的な地発句(俳句)を詠まないようにせよと芭蕉は言っているのかも知れない。 参考:芭蕉の発句について 井本農一

   芭蕉の立句              脇句
 あら何ともなきのふは過てふぐと汁 寒さしざつて足の先まで  信章 延宝天和 
 此梅に牛も初音と鳴つべし     ましてや蛙人間の作    信章
 見わたせば詠れば見れば須磨の秋  桂の帆ばしら十分の月   四友
 鷺の足雉子脛ながく継ぎ添て    這句以荘子可見矣     其角
 旅寝よし宿は師走の夕月夜     庭さへせまくつもる薄雪  一井 貞享元年 
 花咲て七日鶴見る麓かな      おぢて蛙のわたる細はし  清風 貞享三年
 破風口に日かげやよわる夕すゞみ  煮茶蠅避煙        素堂
 粟稗にまづしくもあらず草の庵   薮の中より見ゆる青柿   長虹 貞享五年
 生きながらひとつに氷るなまこ哉  ほどけば匂ふ寒菊の菰   岱水
 かくれ家や目だゝぬ花を軒の栗   稀にほたるのとまる露草  栗齋 元禄二年
 あづみ山や吹浦かけて夕すゞみ   海松かる磯に畳む帆むしろ 不玉
 ぬれて行く人もをかしき雨の萩   薄がくれにすゝきふく家  亨子
 残暑しばし手毎に料理れ瓜茄子   みじかさまたで秋の日の影 一泉
 いさ子どもはしりありかん玉霰   折敷に寒き椿水仙     良品
 何の木の花ともしらず匂ひ哉    こゑに朝日を含むうぐひす 益光 元禄三年
 皷子花の短夜ねぶる昼間哉     せめてすゞしき蔦の青壁  奇香
 白髪ぬく枕のしたやきりぎりす   入日をすぐに西窓の月   之道
 半日は神を友にや年わすれ     雪に土民の供物納る    示右
 ひらひらと揚る扇や雲の峯     青葉ほちつく夕立の朝   安世 元禄四年
 月見する坐に美しき顔もなし    庭の柿の葉蓑虫になれ   尚白
 やすやすと出ていざよふ月の雲   舟をならべて置わたす露  成秀
 その匂ひ桃よりも白し水仙花    土屋薬屋のならぶ薄雪   白雪
 こんにやくにけふは売りかつわかなかな 吹揚らるゝはるの雪はな  嵐雪 元禄五年
 うぐひすや餅に糞する掾の先    日は真すぐに昼のあたゝか 支考
 芹焼やすそ輪の田井の初氷     拳るも寒し卵うむ鶏    濁子 元禄六年
 秋ちかきこゝろのよるや四畳半   しどろにふける撫子の露  木節 元禄七年
 松茸やしらぬ木の葉のへばりつき  秋の日和は霜でかたまる  文代
 秋の夜をうち崩したる噺かな    月まつほどは蒲団身にまく 車庸
 白菊の目に立てて見る塵もなし   紅葉に水を流す朝月    園女
 この道や行人なしに秋の暮     岨の畠の木にかゝる蔦   泥足

 鹽にしてもいざことづてん都鳥   只今のぼる波のあぢ鴨   春澄 延宝貞享 
 げにや月間口千金の通り町     爰に数ならぬ看板の露  二葉子
 色付くや豆腐に落て薄紅葉     山をしぼりし榧の下露   杉風
 わすれ草煎菜につまん年の暮    笊籬味噌こし岸伝ふ雪   千春
 夏馬の遅行我を絵に見る心かな   麦手ぬるゝ瀧凋む瀧    麋塒
 海暮れて鴨の声ほのかに白し    串に鯨をあぶる觴     桐葉
 何とはなしに何やらゆかし菫草   編笠敷て蛙聞居る     叩端
 磨直す鏡も清し雪の花       石しく庭のさむきあかつき 桐葉
 おもひ立木曽や四月の桜狩     京の杖つく岨の夏麦    東藤
 牡丹蕊深くはひ出る蝶の別哉    朝月凉し露の玉鉾     桐葉
 古池や蛙飛びこむ水の音      蘆のわか葉にかゝる蜘の巣 其角 端物
 花に遊ぶ虻なくらひそ友雀     猫和らかにゆるゝ緒柳   岩松
 旅人と我名呼ばれむ初しぐれ    亦さゞん花を宿々にして  由之
 星崎の闇を見よとや啼千鳥     船調ふる海士の埋火    安信
 京まではまだ半空や雪の雲     千鳥しばらく此海の月   樸言
 杜若我に発句のおもひあり     麦穂なみよるうるほひの末 知足
 初秋や海も青田の一みどり     のりゆく馬の口とむる月  重辰
 麦はえてよき隠家やはたけむら   冬をさかりに椿咲くなり  越人
 ためつけて雪見にまかる紙衣哉   凍ゐる土に拾はれぬ塵   昌碧
 箱根こす人もあるらしけさの雪   舟に焚火を入る松の葉   聴雪
 紙ぎぬのぬるとも折ん雨の花    澄てまづ汲水のなまぬる  乙孝 元禄元年
 其かたち見ばや枯木の杖の長け   千鳥来て啼よし垣の池   夕菊
 皆拝め二見の七五三を年の暮    篠竹はこぶ煤掃の風    岱水
 かげろふの我肩に立かこみかな   水やはらかにはしり行おと 曽良
 秣おふ人を枝折の夏野かな     青き覆盆子をこぼす椎の葉 翠桃
 風流のはじめやおくの田植歌    覆盆子を折て我もうけ草  等躬
 五月雨をあつめて涼し最上川    岸に蛍を繋ぐ船杭     一栄
 ありがたや雪を薫らす風の音    住みけん人の結ぶ夏草   露丸 元禄二年
 めづらしや山を出羽の初茄子    蝉に車の音添る井戸    重行
 文月や六日も常の夜には似ず    露に乗せたる桐の一葉   左栗
 すゞしさを我やどにしてねまる也  つねのかやりに草の葉を焚 清風
 しほらしき名や小松吹萩薄     露を見知りて影うつす月 コセン
 あなむざんやな胄の下のきりぎりす ちからも枯し霜の秋草   享子
 早く咲け九日も近し宿の菊     心うきたつ宵月の露    左柳
 黄鳥の笠落したる椿かな      古井の蛙草に入聲     乍木 元禄三年
 種芋や花のさかりに売ありく    こたつふさげば風かはる也 半残
 木のもとに汁も膾もさくら哉    明日来る人はくやしがる春 風麦
 牛部屋に蚊の聲よはし秋の風    下樋の上に葡萄重なる   路通 元禄四年
 水仙やしろき障子のとも移り    炭の火ばかり冬の饗応   梅人
 両の手に桃とさくらや草の餅    翁に馴し蝶鳥の児     嵐雪 元禄五年
 初茸やまだ日数経ぬ秋の露     青きすゝきに濁る谷川   岱水
 打よりて花入探れうめつばき    降りこむまゝのはつ雪の宿 彫棠
 寒菊や粉糠のかゝる臼の傍     提て売行はした大根    野
 からかさにおしわけ見たる柳かな  わか草青む塀の築さし   濁子 元禄六年
 篠の露はかまにかけし茂り哉    牡丹の花をおがむ広場   千川
 重々と名月の夜や茶臼山      肌寒しとてかり着初る   立圃
 十六夜はとりわけ闇のはじめ哉   鵜舟のあかをかゆるさび鮎 濁子
 いさみ立鷹引居るあられ哉     ながれのなりに枯る水草  沾圃
 柳小折片荷はすゞし初真瓜     間引捨たる道中の稗    洒堂 元禄七年
 秋もはやはらつく雨に月の形    下葉色づく菊の結ひ添   其柳
 升かふて分別替る月見かな     秋のあらしに魚荷連立   畦止
 
 花にうき世我酒白く食黒し     眠ヲ尽ス陽炎の痩     一晶 虚栗  天和
 狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉 たそやとばしる笠の山茶花 野水 冬の日 貞享
 木のもとに汁も膾も桜かな     西日のどかによき天気なり 珍碩 瓢  元禄三
 梅若菜まりこの宿のとろゝ汁    笠あたらしき春の曙    乙州 猿蓑  元禄
 青くても有るべきものを唐辛子   提ておもたき秋の新鍬   洒堂 深川
 口切に境の庭ぞなつかしき     笋見たき薮のはつ霜    支梁
 むめがかにのつと日の出る山路かな 処どころに雉子の啼たつ  野坡 炭俵 元禄七
 振売の雁あはれ也ゑびす講     降てはやすみ時雨する軒  野

2012年10月20日土曜日

祖翁口訣:格に入り格を出でて初めて自在を得べし


『祖翁口訣』(そおうくけつ)* 
                
一、格に入りて格を出でざる時は狭く、格に入らざる時は邪路に走る。格に入り格を出でて初めて自在を得べし。

一、詩歌文章を味て、心を向上の一路に遊び、作を四海にめぐらすべし。

一、千歳不易。一時流行。

一、他門の句は彩色のごとし。我門の句は墨絵のごとくにすべし。折にふれては彩色なきにしもあらず。心他門にかわりて、さびしをりを第一とす。

一、名人は地をよく調えしうへに、折にふれては危うき処に妙有り。上手はつよき所におもしろみあり。

一、等類作例第一に吟味すべし。

一、古書撰集に眼をさらすべし。

一、我門の風流を学ぶ輩は、先づ鶴の歩行の百韻、冬の日、春の日、瓢集、炭俵、猿蓑、あら野を熟覧すべし。発句は時代時代をわかつべし。

一、初心のうちは句数を好むべし。それより姿情をわかち、大山を越えて向かいの麓へ下りたる所を案ずべし。六尺を越えんと欲するものは、まさに七尺を望むべし。されど心高き時は邪路に入りやすく、心低き時は古人の胸中を知る事あたはず。

一、俳諧は中より以下のものとあやまれるは、俗談平話とのみ覚へたるゆへなり。俗談平話をたださんがためなり。つたなき事ばかりいふが俳諧と覚得るは浅ましき也。俳諧は萬葉の意なり。されば上天子より下土民までも味はふ道なり。唐明すべて中華の豪傑にも恥じる事なし。唯心のいやしきをはじとす。

一、手爾於葉専要たり。我が国は手爾於葉の第一の国なれば、先哲の作を味はひ、一字も麁末(そまつ)なる事なかれ。

一、句の姿は青柳の小雨にたれたるごとくにして、折々微風にあやなすもあしからず。情は心裏の花をもたづね、真如の月を観ずべし。付心は薄月夜に梅の馨へるがごとくありたし。

*注:此の「祖翁口訣」多少の疑問あれど、乙由の子麦浪の蔵せる筆記を其門人ねる信濃の眠郎が写し置きたりしを『雪の薄』に収めしものなれば、其伝来に対して敬意を表して採録したり。『一葉集』所載のものとは文字異同あり。   
in 俳文集補遺 of 日本名著全集 江戸文芸之部 第二巻『芭蕉全集』

2012年10月5日金曜日

蕉門の前句の意を転ずる妙法とは何か


まだ確証はないが1、2、3と、連歌時代から存在する4も含めた全体を指すか。

1、匂い付け(余情付け)
  前句の余情と同じ匂い・位・響きの意味的には直接関係のない句を付ける。

      灰うちたたくうるめ一枚
    此の筋は銀も見知らず不自由さよ   同じ田舎の匂い

    青天に有明月の朝ぼらけ
      湖水の秋の比良の初霜      同じ壮大な響き

2、執中の法
  前句の余情から中心となる一二三字の単語を連想し意味的には直接関係のない句を付ける。

    糊強き袴に秋を打うらみ 
      鬢の白髪を今朝見付けたり    老を連想 

      手紙を持ちて人の名を問ふ 
    本膳が出ればおのおのかしこまり   振舞を連想    

    此の秋も門の板橋崩れけり 
      赦免にもれて独り見る月      左遷を連想 
      
3、空撓め(そらだめ)
  前句とは何の付け筋もなくふと思い浮かんだ姿をもって直感的に句を付ける。それでいながら無心所着(短歌として意味不明)ではない。蕉門の秘法・妙法とも言われるが芭蕉自身も直弟子にも具体的に説明し得ない絶妙の術と言う。支考は証句として以下を挙げたが、七部集を繙き付け筋はわからないが意味は通じる付句を探して、自分で判断し学ぶしかないのかも知れない。

      障子に影の夕日ちらつく
    婿殿はどれぞと老の目を拭ひ
 
4、見立て替え(取りなし)
  打越に対する前句の意味を意図的に取り違えて句を付ける。 

      蝶はむぐらにとばかり鼻かむ   
    のり物に簾透顔おぼろなる      貴婦人を
      いまぞ恨の矢をはなつ声     仇敵に見立て替え

参考文献
(1)俳諧叢書 俳論作法集、佐々醒雪 巌谷小波校注、東京博文館、大正三年
(2)俳諧叢書 俳諧註釈集 上巻、佐々醒雪 巌谷小波校注、東京博文館、大正十三年
(3)日本俳書大系 蕉門俳話文集 上巻、春秋社、昭和四年


2012年10月2日火曜日

連句は曲解の文学、か?

連歌辞典:
【取りなし】
付け方の一体。前句の言葉や意味を、もとの意味と違ったものに取りなして転じる手法をいう。二条良基『撃蒙抄』にも見える同音異義(「恨み」を「浦見」など)に転換する詞の取りなしと、前句の場面や動作主体を転化する心の取りなしとがある。宗牧『当世連歌秘事』によれば、宗砌はこれも大事であるとしたが、宗祇は『長六文』で好ましくない例を挙げて批判した。宗長『連歌比況集』では前句のもとの内容を無視することのないように注意すべきと説く。

連句辞典:
【見立て替え】
打越の句に対して付けられた前句の趣向を、付句を付けるときに別の意味に解釈すること。主に談林俳諧で用いられた手法で、一句一句の独立性や三句の渡りを重んじる蕉風連句では、前句の解釈可能な範囲内で行われ、奇抜で極端な曲解をしたり、好んで用いるということはされない。
一例を蕉風連句から挙げると、

      蝶はむぐらにとばかり鼻かむ 芭蕉
    のり物に簾透顔おぼろなる    重五
      いまぞ恨の矢をはなつ声   荷兮 
                『冬の日』「狂句こがらし」の巻

では、蝶はむぐらにから優美な貴人をもって前句が付けられているのに、付句はその人物を戦国時代の憎々しい面構えの男と見立て替えして付けたものである。劇的な事件への急転であるが、前句自体の解釈は許容範囲内にある。

感想:
連句は曲解の文学と言った人がいるようだが、曲解(=取りなし=見立て替え)は、付けおよび転じの一手法であり一面はとらえているが言い過ぎである。またその説を批判した人は蕉風俳諧に曲解は皆無であると言っているがそれも言い過ぎであろう。

芭蕉の俳諧 匂い付け

in 付録「元禄の蕉風」佐々醒雪 in 『俳諧註釈集上巻』 東京博文館

付合には、古来三変があると、蕉風では常に説かれている。

第一は「付け物」(注 物付け)即ち貞門風の語の縁によって句を連ねることで、それが談林風では「心付け」に転じた。その「心付け」とは、前句の余意余情を以って付句を作ることをいうのである。ところが「心付け」ではなお前句の作者の作意を受けたものであるから十分に変化しない。自分の趣向が前句の作者に囚われていて面白くない。

さればとて古風な取做し付け(注:見立て替え、曲解)では、前句の作者の思い及ばぬ趣向は得られるが、丸で謎々を説いた様で、毫も詩趣がなく、言語上の洒落に落ちる。

そこで前句に囚われず自由に新意を出しつつなお語の縁をも借りないで工夫を凝らしたのが、芭蕉の創意で、所謂る匂いの付けまたは位あるいは響きの付けというのである。

匂い、位、響きは、全く同じ意味で、畢竟、前句の縁語は勿論、その余意をももとめずして、ただ前句の匂いと同じ匂いのする句を付けるということで、他の語でいえば前句の位や響きと同じ位、同じ響きの句を付けるというのである。

たとえば、

  灰うちたたくうるめ一枚

というと、自ら田舎びた匂いがするから、同じ田舎めいた匂いのする句、

  此の筋は銀も見知らず不自由さよ

と付ける。この句には銀の両替が出来ぬからうるめで辛抱したという様な意味は決してない。ただ前句と付句の匂いが相通うのみである。もし更に、

  青天に有明月の朝ぼらけ

という句をとると、自ら壮快で眼界の非常に広い様な心持ちがする、その位、その響きを以って、やはり大きな句を付けたのが、

  湖水の秋の比良の初霜

である。