2008年3月31日月曜日

西行の歌 十首撰

山家集をはじめて最後まで読んだ。やはり印象に残るのはよく知られた歌が多い。非僧非俗、半俗半僧、道をめざす心と花月に浮かれる心、その境涯に後の芭蕉さんも憧れたようだ。


 願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃    (山家集 077)

 小笹しくふるさと小野の道のあとをまた沢になす五月雨の頃 (山家集 210)

 なにごとも変りのみゆく世の中に同じ影にてすめる月かな  (山家集 350)

 心なき身にもあはれはしられけり鴫たつ沢の秋の夕暮    (山家集 470)

 さびしさにたへたる人のまたもあれな庵ならべん冬の山里  (山家集 513)

 嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな   (山家集 628)

 雲雀たつ荒野に生ふるひめゆりの何につくともなき心かな  (山家集 865)

 ふるはたの岨の立つ木にゐる鳩の友呼ぶ声のすごき夕暮   (山家集 997)

 年たけて又こゆべしと思ひきやいのちなりけりさ夜の中山  (西行上人集)

 風になびく富士の煙の空に消えて行方もしらぬわが思ひかな (西行上人集)


底本:新潮日本古典集成 山家集 後藤重郎校注
参考:西行上人集 http://www.saigyo.org/cgi-bin/cr.rb.cgi?saigyo_syonin-txt

2008年3月27日木曜日

うぐひす

  うぐひすの初音に静む里隣り


けさ庭に鶯が来て美声を聴かせてくれた。木の茂みのようだが姿は確認できない。ひとしきり鳴いて数軒先へと移って行った。遠音もまた耳を澄ませて聴く。

鶯の鳴き声
鶯の映像


 花ときくは誰もさこそはうれしけれ思ひしづめぬわが心かな  西行

 人しれず山ふところに咲き匂ふ花みるときぞわけてうれしき  春蘭



近くの川沿いの桜が開花したらしいと聞きいそいそと出かけた。

2008年3月26日水曜日

西行 みちのく紀行

西行は三十八才(1155年)と六十九才(1186年)の時に陸奥(みちのく)へ旅をしている。その際に詠まれたと思われる和歌とその詞書を紀行文風に編集してみた。芭蕉はこれらから奥の細道の着想を得たわけではないと否定するだろうか。西行の浮かれ出づる心と芭蕉のそぞろ神は同じなのかも知れない。


みちの国へ修行してまかりけるに、白川の関に留まりて、所柄にや、常よりも月おもしろくあはれにて、能因が、秋風ぞ吹くと申しけん折、何時なりけんと思ひ出でられて、名殘り多くおぼえければ、関屋の柱に書きつけける

  白川の関屋を月のもる影は人の心を留むるなりけり     (1126)

関に入りて、信夫と申すわたり、あらぬ世のことにおぼえてあはれなり。都出でし日数思ひ続けられて、霞とともにと侍ることの跡、辿りまで来にける心一つに思ひ知られて詠みける

  都出でて逢坂越えしをりまでは心かすめし白川の関     (1127)

武隈の松は昔になりたりけれども、跡をだにとて見にまかりて詠める

  枯れにける松なき跡の武隈はみきと言ひてもかひなかるべし (1128)

旧りたる棚橋を紅葉の埋みたりける、渡りにくくて、やすらはれて、人に尋ねければ、おもはくの橋と申すはこれなりと申しけるを聞きて

  踏まま憂き紅葉の錦散りしきて人も通はぬおもはくの橋   (1129)

信夫の里より奥へ二日ばかり入りてある橋なり名取河を渡りけるに、岸の紅葉の影を見て

  名取河岸の紅葉のうつる影はおなじ錦を底にさへ敷く    (1130)
        
十月十二日、平泉にまかり着きたりけるに、雪降り、嵐激しく、ことの外に荒れたりけり。いつしか衣河見まほしくて、まかりむかひて見けり。河の岸につきて、衣河の城しまはしたる事柄、やう変りてものを見る心地しけり。汀凍りてとりわき冴えければ

  とりわきて心もしみて冴えぞわたる衣河見にきたる今日しも (1131)

またの年の三月に、出羽の国に越えて、滝の山と申す山寺に侍りけるに、桜の常よりも薄紅の色濃き花にて、並み立てりけるを、寺の人々も見興じければ

  たぐひなき思ひいではの桜かな薄紅の花のにほひは     (1132)

下野の国にて、柴の煙を見て

  都近き小野大原を思ひ出づる柴の煙のあはれなるかな    (1133)                                 
同じ旅にて
 
  風荒き柴の庵は常よりも寢覺ぞものは悲しかりける     (1134)
                                       
陸奥の国にまかりたりけるに、野の中に常よりもとおぼしき塚の見えけるを、人に問ひければ、中將の御墓と申すはこれがことなりと申しければ、中將とは誰がことぞと、また問ひければ、実方の御ことなりと申しける、いと悲しかりけり。さらぬだにものあはれにおぼえけるに、霜枯れ枯れの薄ほのぼの見えわたりて、後に語らんも言葉なきやうにおぼえて

  朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて枯野の薄形見にぞ見る (800)

東の方へ、相識りたりける人の許へまかりけるに、佐夜の中山見しことの昔に成たりける思ひ出でられて(西行上人集)

  年たけて又こゆべしと思ひきやいのちなりけりさ夜の中山 

東の方へ修行し侍りけるに富士の山をよめる(西行上人集)

  風になびく富士の煙の空に消えて行方もしらぬわが思ひかな


底本:新潮日本古典集成 山家集 後藤重郎校注
参考:王朝の歌人8 西行 −花の下にて春死なん− 有吉保
参考:西行上人集 http://www.saigyo.org/cgi-bin/cr.rb.cgi?saigyo_syonin-txt

2008年3月23日日曜日

西行の連歌



西行が詠んだ連歌が数句、西行の家集『聞書集』と『聞書残集』の中に残っている。すべて短連歌で一首の和歌の上句と下句を親しい友人と唱和したものである。

『聞書集』

       上西門院にて、わかき殿上の人人、兵衛のつぼねにあひ申
       して、武者のことにまぎれてうたおもひいづる人なしとて、
       月のころうたよみ連歌つづけなむどせられけるに、武者の
       こといできたりけるつづきの連歌に
 228  いくさをてらすゆみはりの月

       伊せに人のまうできて、かかる連歌こそ兵衛殿のつぼねせ
       られたりしか、いひすさみてつくる人なかりきとかたりけ
       るをききて
 228  心きるてなるこほりのかげのみか


       かくてものがたり申しつつ連歌しけるに、あふぎにさくら
       をおきてさしやりたりけるをみて     家主顕広
 245  あづさゆみはるのまとゐに花ぞ見る

       とりわきつくべきよしありければ
 245  やさしきことになほひかれつつ


『聞書残集』
       かくて靜空・寂昭なんど侍りければ、もの語り申しつつ
       連歌しけり。秋のことにて肌寒かりければ、寂然までき
       てせなかをあはせてゐて、連歌にしけり
 14  思ふにもうしろあはせになりにけり

       この連歌こと人つくべからずと申しければ
 14  うらがへりつる人の心は

       後の世のものがたり各々申しけるに、人並々にその道に
       は入りながら思ふやうならぬよし申して    靜空
 15  人まねの熊野まうでのわが身かな

       と申しけるに
 15  そりといはるる名ばかりはして

       雨の降りければ、ひがさみのを着てまで來たりけるを、
       高欄にかけたりけるを見て          西住
 16  ひがさきるみのありさまぞ哀れなる  

       むごに人つけざりければ興なく覺えて
 16  雨しづくともなきぬばかりに

       大原にをはりの尼上と申す智者のもとにまかりて、兩三
       日物語申して歸りけるに、寂然庭に立ちいでて、名殘多
       かる由申しければ、やすらはれて
 18  歸る身にそはで心のとまるかな

       まことに今度の名殘はさおぼゆと申して    寂然
 18  おくる思ひにかふるなるべし

       いまだ世遁れざりけるそのかみ、西住具して法輪にまゐ
       りたりけるに、空仁法師經おぼゆとて庵室にこもりたり
       けるに、ものがたり申して歸りけるに、舟のわたりのと
       ころへ、空仁まで來て名殘惜しみけるに、筏のくだりけ
       るをみて                  空仁
 22  はやくいかだはここに來にけり 

       薄らかなる柿の衣着て、かく申して立ちたりける。優に
       覺えけり
 22  大井川かみに井堰やなかりつる

       かくてさし離れて渡りけるに、故ある聲のかれたるやう
       なるにて大智勇健、化度無量衆よみいだしたりける、
       いと尊く哀れなり
 23  大井川舟にのりえてわたるかな

       西住つけけり
 23  流にさををさすここちして

       かへりごと申さむと思ひけめども、井堰のせきにかかり
       て下りにければ、本意なく覺え侍りけむ。 京より手箱
       にとき料を入れて、中に文をこめて庵室にさし置かせた
       りける。返り事を連歌にして遣したりける    空仁
 26  むすびこめたる文とこそ見れ

       このかへりごと、法輪へまゐりける人に付けてさし置か
       せける
 26  さとくよむことをば人に聞かれじと


参考文献:聞書集 聞書残集

2008年3月8日土曜日

芭蕉の新式とは(二)

芭蕉の遺品にある新式とは、連歌の式目で以下の三つのうちのどれかだろう。
 
1、二条良基『連歌新式』(応安新式)  1372年
2、一条兼良『連歌新式追加並新式今案』 1452年
  (1+表十句の禁則、連歌初学抄追加)
3、肖柏編『連歌新式追加並新式今案等』 1501年
  (2+和漢聯句の式目追加)

三冊子(しろさうし)によれば、
「俳諧の式の事は連歌の式より習て、先達の沙汰しける也。連歌に新式有り。追加ともに二条良基摂政之を作る。今案は一条禅閤の作。この三つを一部としたるは肖柏の作と也。連に三と数あるものは四とし、七句去ものは五句となし、万ず俳諧なれば事をやすく沙汰しけると也。今案の追加に漢和の法有り。是を大様俳諧の法とむかしよりする也。貞徳の差合の書その外その書世に多し。その事をとへば、師信
用しがたしと云り。」とある。

以上から、芭蕉の新式とは、3の肖柏『連歌新式追加並新式今案等』であり、芭蕉はこれを座右に置いて使っていたと思われる。新式書入とあるので注釈がびっしり書き入れられていたのだろう。

東明雅『連歌入門』に「俳諧の式目は連歌の一種である和漢聯句の式目を踏襲したもので、本式の連歌のそれにくらべて随分ゆるやかなものになっている。」とある。この和漢聯句の式目とは三冊子の言う漢和の法と同じものを指すと思われる。

○和漢聯句の式目
肖柏編『連歌新式追加並新式今案等』から抜粋する。(注:本来聯句とは中国発で漢詩句を連ねるもの。漢詩句と和歌の上句/下句(和句)を混在させたものを、発句が漢詩句なら漢和聯句、発句が和句なら和漢聯句と呼んだ。漢詩句の字数は五字が普通で七字などもある。)

 和漢篇
一 大概法可用連歌式目事
  (たいがい法は連歌の式目を用うべきこと。)

一 和漢共以五句為限 但至漢対句 可及六句事
  (和漢とも五句を以て限りと為す。ただし、漢を対句に至すは六句に及ぶべき
   こと。)

一 景物草木等員数 和漢可通用事 但 雨 嵐 昔 古 暁 老等之類 和漢各
  可用之
  (景物草木などの員数は和漢に通用すべきこと。ただし雨嵐昔古暁老などの類
   いは和漢おのおのこれを用うべし。)

一 同季 可隔七句
  (同季は七句隔つべし。) 

  同字並恋 述懐 可隔五句 同連歌式
  (同字ならびに恋、述懐は五句隔つべし。連歌式と同じ。)

  自餘隔七句之物 可隔五句 月与月之類也
  (自余(じよ:そのほか)七句隔つものは五句隔つべし。月と月の類いなり。)

  隔五句之物 可隔三句 山類与山類 水辺与水辺 木与木之類 日与日 風与
  風猶同字嫌物也 
  (五句隔つものは三句隔つべし。山類と山類、水辺と水辺、木と木の類い 日
   と日、風と風なお同字を嫌うものなり。)

  隔三句之物 可隔二句
  (三句隔つものは二句隔つべし。)

  嫌打越之物 同連歌式目
  (打越を嫌うものは連歌式目に同じ。)

一 山類 水辺 居所等 不可有躰用之分別事
  (山類、水辺、居所など体用の分別は有るべからず。)


同季の七句去りを五句去りに緩めれば、『連句入門』と『十七季』に記述されている去り嫌いとほぼ同じになる。芭蕉が蕉門としての式目を書き下ろさなかった理由の一端をみたような思いがする。芭蕉は俳諧の式目のベースとして、これで十分と思ったに違いない。そして運用上での違い等を注釈として書入れていったのだろう。それをこそ見てみたいものだが。

2008年3月7日金曜日

芭蕉の新式とは(一)

   遺物覚

一 三日月日記 伊賀に有
一 発句書本  同所
一 埋木    半残方に有
一 新式書入
   是は杉風へ可被遣候 落字等有之本写にて可被考候支考も可被写候
   (これは杉風へ遣はさるべくそうろう。落字などこれあらば本写に
    て考ぜらるべくそうろう。支考も写さるべくそうろう。) 
一 文章反古等
   右は杉風方に有之候 文章之草稿は支考可被為點検候
   (右は杉風方にこれありそうろう。文章の草稿は支考点検なさるべ
    くそうろう。)
                     はせを 判

引用文献:日本名著全集江戸文藝之部第二巻 芭蕉全集
    
支考の代筆による芭蕉の遺書とされる書簡の部分であるが、いくつかのバ
ージョンが存在するようだ。上の部分だけでも以下のサイトのものとは違
う。芭蕉が言ったかのように俳論を書いて学者に偽書とされることの多い
支考ならではという感じもしてくるw が、ここではそんなことはどうで
もよく、新式書入に注目したい。

芭蕉の遺書 その一

                           (つづく)