2009年5月29日金曜日

執中の法


    能勢朝次『連句芸術の性格』
 
  速度と付け方との調整 ー 執中の法

(一)
付句の性格は前句に付くことにその根本がある。

心敬が「前句に心の通はざればただむなしき人の、いつくしくさうぞきて並び
居たるが如くなり。前句の取り寄りにこそ、いかばかりに浅はかなる言の葉も、
らうたきものには成り侍るなり」と言った言葉は、芭蕉もこれを門弟に示して、
付句は前句に十分に付くべきものであることを説いている。

この点では、貞門や談林においては、あるいは理知的に物付けで連ね、あるい
は連想の赴くままに、心付けを以って付けてゆくのであるから、付け方も容易
であり、付けたところの道筋も明らかに知り得られる。

しかるに蕉門では、前句の情を引きくることを嫌い、前句はいかなる人、いか
なる場と、そのわざや位を見定めたうえで、前句を突き放して付けるべきこと
が要求せられる。


これは談林のごとくべた付けとなることを嫌うものであり、二句の間を相当に
引離して、幽かなる余韻の薫り合う味わいを求め、そこに風雅の詩趣を醸し出
すことに芸術的意義を発見したためにほかならない。

しかし、かような付け方は、芭蕉や彼の高弟などのごとく、十分なる詩趣を創
造し、隠微なる風韻を感得するに足るだけの修行を積んだ者には、比較的容易
であるが、しからざる者に至っては容易ではないことも明らかである。

去来が「今の作者、付くる事を初心のやうにおぼえて、曾て付かざる句多し。
聞く人も又、聞き得ずと、人の言はん事を恥ぢて、付かざる句をとがめず。却
ってよく付きたる句を笑ふ輩多し」と、当時の作者の弊を指摘して、心の通い
なき句を作る者に警告をあたえているのは、這般の消息をよく伝えたものと思
う。

ここにおいて起こる問題は、かような隠微な気分象徴的な付句を付ける行き方
と、連句の付合における相当の速度を以って付け進めるべき要求と、この両者
の調和の問題である。沈思すれば速度は鈍り、速度をもっぱらとすれば付かな
い付句となる怖れがある。これをいかにさばき扱うべきか。こうした要求に従
って案出されたものに、支考の唱える「執中の法」がある。

これは、匂い・響き等の付け方の心法に比べると、第二義的な啓蒙的な方法で
あるが、実用的であり便利な方法であったために、芭蕉没後の蕉門では、相当
に重んぜられたものであった。

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(二)
支考の『芭蕉翁二十五箇条』に

 付句は趣向をさだむべし。其趣向といふは、一字二字三字には過べからず。
 是を執中の法といふなり。物、その中を執りて前後を見る時は、百千の数
 ありても前後は近し。人は始めより案じて終りを尋ぬる故に、その中隔た
 りて必ず暗し。

とあり、蓼太は『附合小鑑』にこれを敷衍して、

 芭蕉翁二十五條の内、付句に執中の法あり。執中とは中をとるといふこと
 也。案じ方の肝要とす。源氏物語などの大部なる物も、須磨の左遷より筆
 をたてて、前後は枝葉なりとぞ。浄瑠璃の五段続きも、先づ三段目の面白
 き所を作して、さて初後は寄せもの也。

 付句も左の如く、前句に対して付くべき物は、一字二字三字には過ぎず、
 是を弁へざれば、句に向かって趣向を求むる事遅し。ここに至りて執中の
 法を用ふべし。

 其一字二字に、てにはを加へ、延べもし縮めもして、二句連綿すること也。

 付句は蓮の茎を切りはなして、中に糸を引くがごとく、情のかよひたるを
 上品とす。つらねうたといふも此の心にや。

と説き、例句として

      糊強き袴に秋を打うらみ
     鬢の白髪を今朝見付けたり
                    付けは老の一字

      手紙を持ちて人の名を問ふ
     本膳が出ればおのおのかしこまり
                    付けは振舞
     
      此の秋も門の板橋崩れけり
     赦免にもれて独り見る月
                    付けは左遷

のごときものを出している。これらによって見ると、その意味するところは
前句をよく見る時は、その中において、付句の眼目となすべきものは、こ
れを一文字か二文字の単語として求め得られる。その中心となるものを執る」
という意である。ただし、これは前句の中にそうした語があるというのでは
なくて、前句よりおのずからに発展して付句の中心となるべき語の意である。


例によって言えば「糊強き袴に秋を打うらみ 」という前句からは「老」という
一語が付句の中心として発展して来、「手紙を持ちて人の名を問ふ」という前
句からは「振舞」という一語が付句の中心と浮かんで来、「此の秋も門の板橋
崩れけり」 という前句からは「左遷」という一語が付句の中心となるべきもの
として現れてくるというのである。

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(三)
      糊強き袴に秋を打うらみ
     鬢の白髪を今朝見付けたり
                    付けは老の一字

たとえば、第一例の「糊強き」の例でいえば、袴の糊の強くて身になじまぬこ
とに、秋のうらさびしさを感じているような心持があるが、そうした気分をた
どってゆくと、その中になんとなく老人らしい感じが彷彿としてくる。その
「老」というものは結局前句の気分の一標微であるから、その標微たる「老」
を、付句においては具象的な姿で以って表現すればよい。

そこで、これを初老の人の、老を感じて驚き始めた姿において処理して「鬢の
白髪を今朝見付けたり」と句作りすると、此の前句と付句との間には、初老の
人のなんとなきうらさびしさの余情が通いあうことになる。かくすることによ
って、自然に蕉門の匂い付けや移り付けの行き方に合致した付句が得られると
いう結果となるのである。

      手紙を持ちて人の名を問ふ
     本膳が出ればおのおのかしこまり
                    付けは振舞

第二例「手紙を持ちて人の名を問ふ 」は、手紙を持ちながら、大勢の人々の集
まっている席に出て、その手紙の宛名主が、そこにおられるか、おられればどな
たであるか、などと尋ねている光景である。こうした場面は、現代では、多人数
の集まりの席へ、給仕が面会人の名刺を持ちながら、「誰某さんはいらっしゃい
ませんか」などと、呼び出しに来るのと似ている。

そこで、この前句から、何かの饗応に招かれて多勢の者が参会している場所のよ
うな気分を感じ取り、それを「振舞」という一語に集約し、これを付句の中心と
して、付句にはその振舞の席の様子を具体的な姿で描き出して「本膳が出ればお
のおのかしこまり」と付けたのである。

前句と付句は意味のうえからは独立したものであることは、蓮根を切断して左右
へ引き離したごときものでありながら、その蓮根の間には「振舞の席」という無
言の領域の糸が、かすかに両句の間に繋がっているのである。

      此の秋も門の板橋崩れけり
     赦免にもれて独り見る月
                    付けは左遷

第三例の「此の秋も門の板橋崩れけり」という句は、なんとなく荒廃の感じがい
っそうに強まり、この秋はあるいは新しく修理せられることもあろうかと、ひそ
かに期待していたような予想も、裏切られたような感じもある。「門の板橋」は、
板橋だけが朽ち崩れるというのでなくてその邸宅全体の荒廃を、板橋の腐朽とい
うところに焦点を合わせた表現であって、人の出入りもまったく絶えていること
を、強く感ぜしめる巧みさを持っている。

そうした前句の気分を感じ取って、その気分を「左遷」という一語に集約したの
が「執中」の中を執るという手法である。そこで付句においては、この左遷とい
うものを、具体的に描きくればよいので、「赦免にもれて独り見る月」と、左遷
された人物が、月を仰いで、愁嘆の溜息をついているような場面を展開したので
ある。この付合における「左遷」の一語は、二句を連ねる蓮根の糸であること、
前の「振舞」や「老」と同様である。

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(四)
付句におけるかような行き方は、その源をさぐると、支考の独創にかかるものと
は言い難くて、その源流は芭蕉の付句指導の中にも求め得られるかと思われるふ
しがある。それは『去来抄』に

      綾の寝巻にうつる日の影
     泣く泣くも小さき草鞋求めかね 去来

  此の前出て、座中暫く付けあぐみたり。先師曰はく、「よき上臈の旅なるべ
  し」やがて此の句を付く。

という有名な逸話が見えている。「綾の寝巻にうつる日の影」に対して、一座に
どうしてもよい付句が思い浮かばず、人々が困っていたさいに、芭蕉が「よき上
臈の旅であろう」という助言を与えた。その一語によって、去来はこの句を作っ
たというのである。

この芭蕉の一言は、支考的な立場で言えば、まさに「執中」に当たるものである。
もちろんこれを「執中の法」などど厳めしい名目をつけて、わが門の秘法呼ばわ
りをしたのは支考であろうが、そうした案じ方は、芭蕉が時々門弟に示したもの
ではあるまいかと思われる。

かように執中の法は、前句より発展し来たるべきもの、換言すれば、付句
と前句の間を連ねる蓮の糸に当たるものを、一語の中に把握する活動を言うの
であるが、その効果は、いかなるところにあるかといえば、付句を作るさいに、
その一語を、巧妙に具象化すればよいということになって、作句がはなはだ容
易である
ということである。

「老」とか「振舞」とか「左遷」とか、あるいは「上臈の旅」とか、そうしたも
のを題として、五七五または七七の句を作ることさえ行えば、「老」のいかなる
具象、「振舞」のいかなる具象を句作しても、めったに「前句に心の通わない句」
となる怖れはなくなるゆえである。

前句全体に付けるということと、一語に対して付けるということでは、作者とし
ての難易の度ははなはだしく異なる。その点に実用的な効果があらわれ、付句は
はなはだ容易に付き、したがって付合の時間的速度を快調ならしめる効果も上が
るのである。


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(五)
第二の実用的な効果は、打越と前句との世界からの離れぎわの見事さと、付句に
おける変化のおもしろさが、この執中の法によって、巧妙に実現できるというこ
とである。
たとえば「綾の寝巻」の句は『物の種』には

      世は成次第いも焼いて喰ふ   凡兆
     萩を子に薄を妻に家建てて    芭蕉
      綾の寝巻に匂ふ日の影     示石
     泣く泣くも小さき草鞋求めかね  去来

となっている。「萩を子に薄を妻に家建てて」と「綾の寝巻」との間には、富有
な風雅人が別荘でも作り、子の慰みに萩を、妻の慰みに薄を、それぞれに前栽に
植え、その妻などは、日闌けて起き出でて、綾の寝巻には日影が匂うている、と
いうような場面が想像せられてくる。そうした気分が一座の作者たちの心を流れ
ていると、ややもすれば、そうした情趣の糸がどこまでもまとわりついて、容易
にこれを転ずべき趣向が浮かんでこない。

そうしたさいに、前句だけを睨んで、それの中心を、上臈に置き、日闌けた風情
に、旅の疲れの朝寝を思い寄せて、「よき上臈の旅」と執中する時には、今度は
前句を突き放して、その旅の風情を具象的に描けばよく、修練を経た作者であれ
ば、即座に「泣く泣くも小さき草鞋求めかね」ている場面を展開させてくること
ができる。かくして、打越と前句との世界をきわめて巧妙に転じ、かつ変化の妙
趣を発揮して、一座の感興を増すことができるのである。

「手紙を持つて」の句は、『百囀』によれば、

      白いつつじに紅のとび入る   芭蕉
     陽炎の傘ほす側に燃えにけり   支考
      手紙を持つて人の名を問ふ   支考   
     本膳が出ればおのおのかしこまり 芭蕉

というふうな連句の進み方である。「陽炎の」句と、「手紙を持つて」の句の示
す世界は、飛脚が、宛名人の宅がどこであろうかと、春日和に門口などに出て傘
を乾している人に向かって、尋ねているような風光である。そうした付合の打越
・前句の世界を見事にはなれて、付句を作るためには、「手紙を持つて人の名を
問ふ」の境を、「振舞」という一語に執中してしまうことが有利であり、付句の
句作りにおいては、振舞の場面というものを、最も俳趣ゆたかにおもしろく作る
ことに全力を傾けてゆけばよいのである。



写真提供はフォト蔵さん

2009年5月27日水曜日

音羽御殿



笊そば 蕎すけ 
 地下鉄護国寺駅を出るといい時間だ。いきなりすぐそばの蕎麦屋に入る。海老天ざると穴子天ざる。蕎麦は品がある。店の雰囲気もいい。

群林堂    
 目当ての音羽御殿への道すがら、長い列に並んだことのある和菓子屋があった。当然のように豆大福と豆餅を買う。

鳩山会館 
 音羽御殿とも呼ばれる。鳩山一族が住んで居た洋館。旧岩崎邸などの財閥の洋館から比べるとやや規模は小さいがやはり素晴らしい。庭の薔薇とつつじが満開だ。新しいリーダーが生まれるかも知れないからかおばさま方で混んでいる。大型バスの団体も来る。薫子さんへ出した一郎さんのラブレターが面白い。泰山木の大きな白い花が咲いていた(その場では名前が出ずネットで調べた(^^;))

護国寺  
 入り口の喫煙コーナー、煙草を吸っている人がいないので、露台で豆大福と豆餅をいただく。豆の量がすごく、うれしい。お寺は思ったほど奥行きはなかった。脇の茶室群が印象に残った。そうだ!昔着付け教室のお茶会でここに来たことがあるわと妻が言った。おそっw


写真1提供はウィキペディアさん
写真2提供はhana300さん

2009年5月26日火曜日

同苦



『阿修羅を究める』興福寺監修 小学館

「仏教に敵対する神であった阿修羅が、天平時代に奈良・興福寺でなぜ清楚な表情の少年像に造形されたのか?隠された謎に多方面から光を当てる。」と帯にある。阿修羅展で間近に阿修羅像を観て、同じ疑問を持った。またこれを造った光明皇后の思惑も探りたい。


  ゆくりなきもののおもひにかかげたるうでさへそらにわすれたつらし  会津八一

  けふもまたいくたりたちてなげきけむあじゆらがまゆのあさきひかげに    同


衆生とともに苦しみ悲しむ(同苦する)ような阿修羅像の切ない表情に多くの人が惹かれるというのはわかる。それはキリストの磔像(十字架)とある意味同じだろう。733年に光明皇后は母橘三千代のために清楚な阿修羅像などを造ったという。その22年前の711年に同様な造形の阿修羅の塑像が法隆寺五重塔北面に造られている。

金光明最勝王経 キーワード=懺悔
祖父の藤原鎌足、父の藤原不比等、母の橘三千代がやってきたこと。歴代の天皇をあやつって一族の繁栄に邪魔な人達 e.g.有馬皇子、大津皇子、長屋王等を次々に抹殺していった。 その懺悔か? 

写真提供はフォト蔵さん

2009年5月25日月曜日

歌仙『新緑』の巻


    歌仙『新緑』の巻
             2009.5.15〜5.25

  鉄橋や新緑つなぐ電車ゆく      百
    追ひつづけやう僕の箱庭    鉄線
  小さきより知識の海に漕ぎだして  青波
    すっくと立ちて迷ふだいどこ  春蘭
  砂糖壷塩壷月の光受け        線
    ビルの屋上さつま芋掘る     百
  ひと畝に雅びとどめむ隠君子     蘭
    人間にあり香気漂う       波
  婚約の記念の新車ハイブリット    百
    秘密のナンバーXYZ      線
  偲び逢う二人が向かう先は此処    波
    喧嘩の次第父に糺さる      蘭
  冬の雷遠ざかるほど効くらしい    線
    月の出遅く狐火の丘       百
  お茶ばかり飲んでは通ふ厠にて    蘭
    敷石の上青蛙跳ぶ        波
  それぞれがそれぞれの余花みつけたり 線
    趣味の晩学こころうらゝか    蘭
                              
  蜃気楼でるかも知れず富山湾     百
    うつらうつらと春の夢見る    波
  今にしておもへば恥もなつかしく   蘭
    ルビ美しき原稿を読む      線
  国会の首相答弁よどみなく      波
    音羽の滝の瀬を早やむらん    百
  ただしイケメンにかぎると落ちがつき 線
    仲人好きが月の奔走       蘭 
  連句好き紅葉マークをとっぱらい   百
    新米を刈る手伝いをする     波
  ほのぼのと明けくる空に星溶けて   蘭
    墓のかはりの小石探さむ     線
  人の語を良く理解せし愛犬の     波
    目は口ほどにものを言うなり   百
  世の中は「さはらぬ神」のうようよと 線
    ひとり静かに酒はやるべし    蘭
  折り下げて池を巡れば花三分     百
    我が胸の中春の風満つ      波

       百 九
      鉄線 九
      青波 九
      春蘭 九

トピ
写真提供はフォト蔵さん

2009年5月24日日曜日

ちりめん山椒


庭の山椒の実でちりめん山椒を作ってもらった。春蘭好み。

2009年5月23日土曜日

阿修羅展


阿修羅展
 風が強い中一時間ほど並んだ。中もごった返している。みんなが阿修羅になっているw 阿修羅のゾーンは何重にも張り付いてみんな動こうとしない。間近に上から下から観て、二十歳の一人旅で薄暗い堂で観たときのイメージが覆った。微笑みまで感じさせる角度がある。阿修羅とは何か、特異な造形の謎、誰が何のために作ったかー表向きと本当の狙いは?興味が湧いてきた。

  阿修羅展みんながあしゆらになつてゐる
 
旧岩崎邸
 かつては一万五千坪を超える敷地に二十棟以上の建物があったとか。洋館、和館、庭園、撞球室を順に回る。特に洋館が素晴らしい。二階のベランダから、ごきげんようと言いながら手を振って見た。天皇と皇后の気分を想像しながらw 今度は音羽御殿(鳩山邸)に行って見よう。

池之端薮
 すでにラストオーダーの二時近い。急いで天せいろと冷酒をたのむ。切り子のグラスに菊正樽酒をそそぎつつ、そば味噌をいただく。さくっと軽い海老のかき揚げ、妻が眼を輝かせている。どうしてこんなにおいしいの、どうして同じような食材、値段なのに店でこんなに差が出るの、これでいいと思わないで上を目指すかとどまるかの違いだよとえらそうに私が答える。酒悦に寄って帰る。

写真提供は阿修羅ファンクラブさん
阿修羅展公式サイト 

2009年5月18日月曜日

ところてん


  晩学は腹にたまらぬところてん

写真提供はウィキペディアさん

2009年5月17日日曜日

ダ・ヴィンチ・コード

ダ・ヴィンチ・コードを三年ぶりにテレビで観た。三年前にカキコしたマグダラのマリア関連の記事をmixi日記から拾った。

ヴェズレー マグダラのマリアへの旅6

コージーコーナーで買ったマドレーヌ*を食べながら、BSの世界遺産フランス縦断の旅『ヴェズレー』を入れ込んで見た。

http://tabehoudai.exblog.jp/i3 *マドレーヌもいろいろ

ヴェズレーの丘は、映画『化石』でも出てきたが白黒だったのと季節が冬で寒そうな感じがした。燦々と輝くサント・マドレーヌ聖堂。なだらかな丘が地平線までつづく。一面の葡萄畑。山梨の葡萄の丘やフルーツ公園、登美の丘あたりを思い浮かべた。

サント・マドレーヌ聖堂は、スペインのサンチャゴ(サント・ヤコブ)への巡礼の道の起点だそうだ。巡礼者は、帆立貝の貝殻を付けている。聖ヤコブの象徴だというが、マグダラのマリアの象徴でもなかったか。ヤコブはイエスが受難の時眠りこけていた一人ではなかったか、マグダラのマリアを追放した側ではなかったのか。初期キリスト教から現代までその内部でどのような対立と和解、改宗があったのか知るよしもないが。

聖堂のガラスケースの中に、マグダラのマリアの肋骨一本が安置されていた。秘蔵かと思っていたので拍子抜けだが思いがけず見れてよかった。他の骨はどうしたんだろうという素朴な疑問が。分骨か。畏れ多くてインタビューも御法度なのだろう。

第二次世界大戦が終わった1946年、この丘で世界平和の祈りの集いが開かれた。そのとき思いがけず敵国であったドイツの人たちが十字架を背負ってこの丘を登ってきた。それをみんなが暖かく迎い入れたという。当時を知るひとにインタビューをしている住吉美紀アナは涙声になった。それを見てわれわれももらい泣き。


視聴者からのメールを紹介している。前に赤ちゃんを連れてここを訪れたとき、赤ちゃんが泣き出した。ミサの最中だった。ミサが終わったとき修道女(士?)がやってきて、「赤ちゃんのこともお祈りしていましたよ」と言ったという。それ以来、私たちにとってヴェズレーは特別な場所になりましたという内容。一同思わず瞳が濡れる。

聖堂への参道にある「巡礼者の地下室」というワイン屋さん。ワイン通またはのんべえの加藤紀子が試飲する。とってつけたようなコメント、名残惜しそうな顔がおかしかった(^^)

無限の愛ーマグダラのマリアへの旅5

■『マグダラのマリア 無限の愛』ジャクリーヌ・クラン著 
 福井美津子訳 岩波書店 1996.6
 原題:MARIE MADELEINE, UN AMOUR INFINI 1982


本では、フランス語読みで、マグダラのマリアをマグドレーヌ(マドレーヌ)と呼んでいる。「わたし」マグドレーヌの回想と告白が随想あるいは詩の形で語られる。それには苦界に身を置いていた娼婦時代のこともあからさまに書かれている。運命のイエスとの出逢いから別れ、復活、プロヴァンスへの逃避まで、マグドレーヌから見た事蹟が語られる。もちろん、著者の創作=小説である。この本の売りはこれだ。

それを傍証するような形で聖書や神話、外典などを引用して事蹟の解釈・解説がある。「わたし」が語る文章は後ろに行くほど詩的であり、解説は学術的である。はっきり言って、両方ともそう読みやすいものではない。詩的な文章には、比喩や象徴があふれており、邦訳でニュアンスの違う訳をしてるのかなと思わせるところもある。意味的にわけがわからないのが気の利いた詩なのかもしれない(^^)

【最低の境涯に身を置いていた娼婦マグドレーヌは、イエスを一瞥し改悛しイエスに全身全霊で帰依した。イエスは彼女を一番、目の開いた弟子として許し、信頼し、愛した。それを身近でみていた弟子たちは嫉妬した。「イエスは娼婦のようにすべての人に自分を与えた」

特にユダは、最低の娼婦すら罪を許され愛されるなら、最低の密告(それほど大事にはならないはずの)をして懺悔すればイエスに同じように祝福され愛されるだろうと浅はかにも密告してしまった。しかし、その結果、イエスは十字架にかけられた。


    あの方は苦界のわれを許しけり
          後の世までもついていかまし  春蘭

             
十字架の下で泣き叫んだ唯一の女性はマグドレーヌだった。そして復活したイエスが最初にあらわれたのもマグドレーヌである。イエスはマグドレーヌの深い信仰のレベルを認めており、後継者と考えていた。しかし現実はそうはならなかった。帆のない舟に仲間と乗せられ追いやられてしまった。

マグドレーヌ一行を乗せた舟は、運良くの南フランスに漂着した。布教ののち、マグドレーヌはサント=ボームの洞窟に住み三十年瞑想の信仰生活に入ったという。サン・マキシマンのマリ=マドレーヌ教会とヴェズレーのサン・マドレーヌ聖堂には、それぞれマグドレーヌの遺骨があるというが本当はどうなのだろう。】

プルーストの『失われた時を求めてースワン家のほうへ』を引用し、そこに出てくる「マドレーヌ」のお菓子は、マグドレーヌのことだという。これからは一礼してからマグドレーヌをいただくことにしよう(^^)

イエスを愛した女ーマグダラのマリアへの旅4

■イエスを愛した女−聖書外典:マグダラのマリア−
ゴードン・トーマス 柴田都志子・田辺希久子訳 光文社 1999.4
原題:Christos Maria of Magdalene


男性優位、女性蔑視の立場で書かれている新約聖書の福音書の記述を、意図的に排除された聖書外典の記述で正し、イエスの生誕から死、復活まで書き下ろしている。そこには、意図的に排除、改変されたマグダラのマリアのことが特に盛り込まれている。マグダラのマリアを公平に評価をすべき新しい千年紀が来たのだと著者は訴えている。

しかし、レンヌ=ル=シャトーの謎やダ・ヴィンチ・コードのようなつもりで読もうとすると多分、失望するだろう。

救い主イエスとマグダラのマリアの愛に満ちた関係は、紀元後二十六年ころ始まったとあるが、この愛とはアガペー(自己犠牲的・非打算的愛)で、無論、肉欲的な愛ではない。よって、マグダラのマリアは、イエスの妻で、ふたりの間には子がいたとはどこにも書かれていない。

印象的な二つのシーンは、多分、既存の四つの福音書だけでも読み取れる部分ではあろう。

●イエスの足元にひざまずいたマリア
「マグダラのマリアはぽろぽろ涙を流しながらイエスの足元にひざまづいた。そしてかさかさに乾いた彼の肌の上にその涙をこぼし、それを自分の長い髪でぬぐった。 。。。 その瞬間からどの弟子にもましてイエスに忠実に従い、彼らのだれにもできなかったようなやり方でイエスに無限の愛をそそぐようになる。彼女は、イエスを愛した女になったのである。」

 。。。の部分でイエスは心を揺さぶられ、この女はなにものと疑っている他の弟子達に信仰とは愛とはこういうことだと諭している。

●復活
「うしろから、イエスが彼女に呼びかけた。『マリア!』 イエスはそこにいた。 『先生!』彼女は叫んだ。 『安心しなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなた(がた)と共にいる』」

イエスを愛した女は、イエスが愛する女であり、イエスが一番愛する弟子でもあった。

隠された聖地ーマグダラのマリアへの旅3

■隠された聖地−マグダラのマリアの生地を巡る謎を解く−
ヘンリー・リンカーン(The holy place 『聖地』1991)平石律子訳 監訳:荒俣宏 河出書房新社 1997.1


南仏のレンヌ・ル・シャトー村は、マグダラのマリアが創った巨大な聖地・神殿の中心地であるという仮説を展開している。広範な一帯の山や教会、城、遺跡等を結ぶと正確に巨大な五芒星が描け、パリの子午線もそこを通り、それぞれの遺物が子午線上に等間隔でマッピングできる。これだけ正確なのだから、レンヌ・ル・シャトーを中心とする一帯は、マグダラのマリアの神殿・聖地にちがいないという推論をしている。

リンカーンは、1982年に共著で、『聖なる血と聖杯』(邦訳題は『レンヌ=ル=シャトーの謎−イエスの血脈と聖杯伝説−』)を世に出しベストセラーとなる。

『ダ・ヴィンチ・コード』は、『聖なる血と聖杯』の盗作だと訴えられたが、『聖なる血と聖杯』のストーリーの核心部分(マグダラのマリアはイエスの妻で子も生まれた。現代までイエスの血脈は存続。血脈が聖杯)は一般的で抽象的であり、盗作には当たらないという判決であった。

『聖なる血と聖杯』と『聖地』の原作は10年の開きがあるが、邦訳されたのが同じ年なので、間違えて?こっちを買ってしまった人も多いだろう。レンヌ・ル・シャトーはマグダラのマリアが南仏に逃れてきて、布教をはじめたところで、聖地という論は展開しているが、マグダラのマリアの生地という論は特に展開していないので副題は誇大広告気味。



<補足>
イエスの死後、マグダラのマリアはどうなったのだろうか。一般的な説(ネット上)を集めてたどってみると、

●イエスの死後【エルサレム】
 イエスの死後、マグダラのマリアは、イエスの母マリアと十四年間すごしていた。

●迫害、追放、流刑、脱出【エルサレム】
 エルサレムで迫害を受けたマリアは、イエスが信頼していたヨセフに助けられフランスへ脱出。

 ユダヤ人たちによって帆の無い船に乗せられ流刑にされてしまう。

 もっとも広く流布した伝承によると、ステパノの殉教後、迫害にあったマリアはマルタ、ラザロ、アリマタヤのヨゼフら多くのキリスト教徒たちとともに追放された。

●南フランス漂着【サント・マリー・ド・ラ・メール】
 兄弟や聖人たちとともに南仏カマルグ(マルセイユの西の河口湿地帯)に流れ着いた。

 サント・マリー・ド・ラ・メール(カマルグの先端)に流れ着いた。

 神の加護を得て奇蹟的に船でマルセイユに漂着した。上陸地を「海のマリアたち"Saintes Maries de la mer"」と名づけ、現在でもジプシーの最大の聖地となっている。

●南フランスでの布教【マルセイユ プロヴァンス】
 マルセイユにつき、そこで彼女は宣教をはじめた。

 マリアからイエスの教えを聞いたマルセイユの王と王妃とその国の人々はことごとく、ラザロと聖マクシミヌスから洗礼を受け、マルセイユじゅうの異教の神殿をうちこわしキリストの教会を建てた。一行はその後エクスの町へ行き、多くの奇跡によってたくさんの人を改宗させた。

 プロヴァンス一帯で福音伝道し異教徒の改宗に尽力したという。

●瞑想、修行【サント・ボームの洞窟/砂漠】
 晩年が近づくと、自らサント・ボームの洞窟に入り、そこで生涯を閉じた。

 マグダラのマリアは使徒としての使命を終えると、砂漠に引きこもり、30年の間、誰にも知られずに修行を続け、秘蹟を受けて後、天にのぼった。

 サント・ボームSainte Baume(マルセイユの東30km)の山中の洞窟に隠遁して隠修士となり33年におよぶ瞑想生活ののち、天使に付き添われて昇天したとされる

 サント・ボームの洞窟で瞑想生活をおくり生涯を閉じたとされている。

●埋葬、墓【ヴェズレーのサン・マドレーヌ聖堂/サント・ボーム】
 マリアは手厚く葬られ、聖遺骨はフランスのヴェズレー(Vezelay)の修道院にある。

 サント・ボームの麓の街サン・マクシマン・ラ・サント・ボームに、エクスの初代司教・聖マクシミヌスによって彼女の遺体が葬られたとされる。

 マリアの遺骨が眠るヴェズレー(パリの南東)のサン・マドレーヌ聖堂はフランスで最も重要な巡礼地として多くの巡礼者をひきつけていた。

正統はマグダラのマリアだった?!ーマグダラのマリアへの旅2





ナグ・ハマディ写本などキリスト教外典のグノーシス文書には、ペテロとマグダラのマリアの抗争が記述されている。板挟みの形のイエスは、マグダラのマリアを擁護する立場である。

●(マグダラの)マリア福音書
 ペテロ、マリアに向かって、「姉妹よ、救い主が他の女性たち
 にまさってあなたを愛したことを知っています」

 ペテロいわく、「まさかとは思うが彼がわれわれに隠れて一人
 の女性と、しかも公開ではなく語ったりしたのだろうか。将来
 は、われわれは自身が輪になって。皆彼女の言うことを聴くこ
 とにならないだろうか。救い主が彼女を選んだというのは、わ
 れわれ以上になのか」

ペテロのマグダラのマリアへの強い嫉妬、皮肉と反発が見える。
またマグダラのマリアを選んだイエス(彼)に対する不信の念さ
えもうかがえる。

●トマス福音書
 ペテロ「マリハム(マグダラのマリア)は、私たちのもとから
 去ったほうがよい。女たちは命に値しないからである。」

 イエス「見よ、私は彼女を天の王国へ導くであろう。私が彼女
 を男性にするために、彼女もまたあなたがた男たちに似る活け
 る霊になるために。なぜならどの女たちも、彼女らが自分を男
 性にするならば、天国に入るであろうから」

男女平等主義のイエスの教えに反するペテロの暴言。イエスはじゃあ、彼女たちを男性にすれば問題ないんだねとペテロのレベルに合わせてはぐらかしているのか。

●ピスティス・ソフィア(信仰の智慧)
 イエスはマリアに「マリハム、幸福なマリハムよ、わたしは
 あなたを、天の御業のあらゆる神秘において完全なるものと
 しよう。勇気をもって語りなさい。なぜならあなたの魂は、
 他のすべての兄弟たちよりも、天の王国に向かっているのだ
 から。」

 ペテロ「主よ、わたしたちに代わってしゃべるこの女にわた
 したちは我慢なりません。彼女はわたしたちの誰にもしゃべ
 らせず、のべつまくなく自分がしゃべっているのです」
 。。。

 マリアはイエスに「わたしたちは、自分たち自身のことだけ
 を憐れんでいるのではなく、人類全体を憐れんでいるからです」

イエスは、霊的な円熟度が一番高いマグダラのマリアを一番かっ
ており後継者と考えている。自分が主導権をとりたくてうずうず
し、妬んでいるペテロ。イエスに励まされて人類愛を説くマリア。

しかし、後の歴史はイエスとマグダラのマリアの思いとは反対の
方向に動いていったようである。

■参考文献
(1)新共同訳 聖書 日本聖書協会
(2)マグダラのマリア−エロスとアガペーの聖女−
   岡田温司 中公新書

   *アガペー キリスト教における愛。罪深い人間に対する
      神の愛、人間どうしの兄弟愛など、自己犠牲的・非
      打算的な愛をいい、エロス的愛とは区別する。


写真は、ロダンの『キリストとマグダラ』 
 アガペーとエロス。この石膏の彫塑にインスピレーションを得た芸
 術家も多いことだろう。

サングリアル文書はこれか?ーナグ・ハマディ文書ーマグダラのマリアへの旅1

「聖杯の探求の目的は、マグダラのマリアの遺骨の前でひざまずくことだ。貶められ、失われた聖なる女性に心からの祈りを捧げるために、旅をつづけたのだよ」 

ダ・ヴィンチ・コードの原作はこの言葉で終わる。聖杯の部分であるサングリアル文書は、小説では発見されたようだが、実際には発見されたのだろうか。

1945年12月、アラブ人のムハンマド・アリーがナグ・ハマディという町の近くの崖の洞窟で、パピルスの十三冊の写本を発見した。これはナグ・ハマディ文書/写本と呼ばれる。

その後の解読と研究により、その多くがグノーシス文書であることが判明する。グノーシスとは、正統キリスト教会から、異端扱いを受けてきた主義であり派である。マグダラのマリアは、グノーシス主義者であったと言われる。当時の正統派はペテロに代表される。

 *グノーシス主義者 イエスは霊として復活、自己と神は同一、
      自分の中に神がいる(注:大乗仏教の自力に通じるか。
      グノーシスの思想と大乗仏教の思想は似ているところ
      があり、南インドなどで両者の交流があったのではな
      いかという学説がある。)

 *正統派 イエスは肉体として復活、神と人間は別のもの、イ
      エスのみ神の子(注:小乗仏教の他力に通じるか)

 *ペテロ イエスを三度知らないと言い、イエス没後マグダラ
      のマリアがイエスが霊として復活したと言っても信用
      せず、パウロの布教の言葉は誤解を受けやすいと批判。
      正統派では、イエスの復活の最初の証人としている。

イエスの生前から両派の主導権争いがあったように見える。イエスの没後はなおさらであったろう。ナグ・ハマディ写本を持ち出さずとも、共同訳の新約聖書の福音書を読んだだけでも、そういうことがあっただろうと感じられる。

ナグ・ハマディ写本は13冊52文書からなる。これは、初期のキリスト教会は今よりもっと単純でもっと純粋であったはずという予想を覆し、初期のころから無数の多様な福音書などが存在していたことを明らかにした。

新約聖書として選択された四つの福音書は、その極一部にすぎないのだ。しかも正統派に都合のいいものが多く選ばれたであろうことはだれでも想像がつく。

マルコ、マタイ、ルカ福音書は共観福音書と呼ばれ似ているが、ヨハネ福音書は似ておらず、グノーシス派はグノーシス文書とみなしているらしい。グノーシス派的な解釈でも読めるということだろう。

しかし、ナグ・ハマディ写本の多くのグノーシス文書の発見によりグノーシス派は、ヨハネ福音書のグノーシス的解釈だけに頼る必要がなくなった。

ナグ・ハマディ写本
●トマス福音書

 【イエスが言った、「あなたがたが、あなたがたの中にあるもの
 を引き出すならば、それが、あなたがたを救うであろう。あなた
 がたが、あなたがたにあるものを引き出さなければ、それは、あ
 なたがたを破滅させるであろう。」】

 人は神の子、自分の中に神の性質を持っており、自分を見つめ、その神性を発見し、開発せよとイエスは言っている。イエスはグノーシス主義者だったのか。

●ピリポ福音書

 【救い主の伴侶はマグダラのマリアである。しかしキリストは彼
 女をどの弟子よりも愛した。そして彼は、彼女の口にしばしば接
 吻をした。他の弟子たちは感情を害し彼に言った。「なぜあなた
 は私たちすべてよりも彼女を愛するのですか。」救い主は彼らに
 答えて言った。「なぜ私は彼女を愛するようにおまえたちを愛さ
 ないのであろう。」】

 新約聖書の福音書にある、愛する弟子とは、マグダラのマリアのことか。イエスはマグダラのマリアを弟子としても女性としても一番愛し信頼していたのか。文句を言っているのはそれに強く嫉妬していたペテロだろう。
 
●(マグダラの)マリア福音書

 【イエスは甦って、まずマグダラのマリアに御自身を現わされた。
 マリアはイエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところに行
 って、それを知らせた。彼らは、イエスが生きておられること、
 彼女に御自身を現わされたことを聞いたが、信じられなかった。

 マリアは泣いて、ペテロに言った。「兄弟ペテロよ。あなたはど
 う思いますか。私が頭の中で一人でこのことをでっち上げたと思
 いますか。それとも、私が救い主について嘘をついていると思い
 ますか。」レビはペテロに答えて言った。「ペテロよ。あなたは
 今までいつも短気だった。救い主が彼女をふさわしい者にされた
 のであるならば、彼女を拒むあなたは、いったい何者なのか。」】

 前段と同じ趣旨の記述は、マルコ福音書にもある。イエスの復活の最初の証人は、ペテロではなく、マグダラのマリアだ。後段は、マグダラのマリアの反対者と追随者が弟子の中にいたことと、イエスは教団の後継者としてマグダラのマリアを選択したのではないかとも感じさせる記述だ。

はしがき
仏教でも釈迦は相手の知識や機根、修業の程度、霊的な円熟度に応じて教えを説いたと言われる。機根の低い者には奇跡物語や寓話、譬え話を用いる。小乗は実は大乗へ至るための方便であった。参考文献によれば、キリスト教においても同じことが起こったのだと言う。マグダラのマリアは霊的な円熟度が高く、イエスは譬え話ではなく奥義を教えたと。奥義とは自己と神の合一の認識にいたる道なのだろうか。


■参考文献 ナグ・ハマディ写本−初期キリスト教の正統と異端−
      エレーヌ・ベイグルス 荒井献・湯本和子訳 白水社

ダ・ヴィンチ・コードの事後学習




原作を読まずに映画を観てわからなかったことを調べる。


■なぜルーブル美術館館長ソ二エールは殺されたのか

ローマン・カトリックから破門された急進派オパス・ディは、聖杯の秘密を世界にあばくことによって、ローマン・カトリックの総本山(バチカン)に対して仕返しをしようとする。

そうだったのか。まずこれが分からないまま謎解き列車は発車(^^;)

オパス・ディは聖杯の秘密を追っていたが、修道士シラスに命じ、秘密を明かさないシオン修道会総長、ソ二エール館長を殺す。

聖杯の秘密を総長しか知らないとすると、秘密は闇に葬られてしまうけど急進派としてそれでいいのか?という疑問は残る。

映画では、バチカンとオパス・ディ、導師、司祭、修道士などの関係が非常に分かりにくかった。


■なぜソ二エールはウィトルウィウス的人体図風な格好で暗号を残して死んだのか。

ただ死んでしまうと、シオン修道会の聖杯の秘密が闇に葬られてしまう。瀕死の中で、ソニエールは、暗号を残す。ハーバード大の宗教象徴学教授ロバート・ラングドンと、フランスの司法警察の暗号解読官であるソフィー・ヌヴーに、暗号を解読してくれるように依頼するダイイング・メッセージを残して。

他に聖杯の秘密を知っている人はだれもいなかったのかが疑問。そういう人がいればなにもしちめんどくさい暗号を残す必要などなかった。でもこれがないと小説も映画も成り立たない(^^)たとえば小説では他に知っていたひとも殺されたとか?


■再確認
●聖杯の秘密
イエスはマグダラのマリアが妻で、マリアはイエスの子をはらんでいた。

イエスの死後、マグダラのマリアは、キリストの信者たちによって、南フランスに連れて来られ隠された。マリアは、女児サラを産む。その子孫は、後にフランク王国のメロヴィング王朝を興す。その子孫が今でもいる。

聖杯とは、イエスの血脈、すなわち、マグダラのマリアとその子孫のことであった。その血脈を守るために結成されたのがシオン修道会であり、その下部組織のテンプル騎士団である。


●ダ・ヴィンチの絵の秘密
ダ・ヴィンチは、シオン修道会総長であり、モナリザとして、マグダラのマリアを描いた。絵のモナリザ(マリア)は子をはらんでいる。

もうひとつの絵、最後の晩餐でイエスの左隣にいるのはマグダラのマリア。二人の間にできるVの字の空間は子宮を意味し、これが聖杯のシンボルでもある。この空間にかすかに子供の輪郭が見えるとする見解もあるようだ。


●謎解きの連鎖 
聖杯(マグダラのマリアの墓とその子孫)を探すため、謎解き(暗号解読)が始まる。これらは連鎖しており、一つ謎を説いてもまた新たな謎が立ちはだかる。

映画では一つ一つの謎解きに時間をかけていられないので、駆け足になり、観る人は付いていくのが大変。ラングドンとソフィーは、結構あっさり謎を解いていく。オパス・ディと警察に追われながらなのであわただしいが。

・館長が残した暗号の解読ー>百合の鍵の発見 
・百合の鍵が特定銀行の貸金庫のものという割り出し
・暗証コードの割り出し(フィボナッチ数列)ー>薔薇の箱に筒発見    
・筒を開けるコードの割り出しー>紙片の発見
・紙片の文章の解読ー>マグダラのマリアの墓、子孫、ガーディアン発見
・紙片の文章の解読ー>ルーブル美術館のビラミッドの地下深くに
 本物がある?


聖書を開いて、マグダラのマリアが出てくる福音書の箇所を拾い読みしてみた。やはりマグダラのマリアはイエスが一番愛した人で一番近くに居たのは事実のようだ。でもなにかをかくすか、ひっかかるような書き方を感じるのはなぜだろう。

2009年5月15日金曜日

Angels & Demons 天使と悪魔


公開初日、朝一番で観た。原作の通りに映画化できれば、前作ダ・ヴィンチ・コードを超える面白さだろうと思っていた。が、ほとんど夜の場面で、謎解きは平凡だし、ラングドンの危機一髪の離れ業やビットリアとの恋などもなく、インパクトは前作ほどではなかった。でも、反物質の生成と上空での爆発の場面は緊迫感があった。

原作の完全ネタバレ:Angels & Demons(天使と悪魔)

2009年5月14日木曜日

新茶


  小包は恩を忘れぬ新茶かな


もう何十年になるだろう。この時期になると妻のビアノの教え子
から新茶の小包が届く。教え子と言っても妻より年上で、保母さ
んになり、その上の職にも就いたと聞く。今自分があるのは、あ
のときピアノを教えていただいたからだと言って。

妻はもう何十年も前のこと、やめて下さいとその都度電話する。
でもそうできることがうれしく幸せなんです、自分のためにして
いることなんですと言われ、妻は引き下がる。恐縮しているので
すが、実はこの時期になると新茶の小包をこころ待ちにしている
んですと言いながら。

いいな、こんな関係、人間て素晴らしいと思う。包みを開けたら
名前が「初香り」、いい名だ。


写真提供はフォト蔵さん

2009年5月13日水曜日

恩田陸『光の帝国』常野物語


恩田陸『光の帝国』常野物語

 僕たちは、光の子供だ。どこにでも、光はあたる。
 光のあたるところには草が生え、風が吹き、
 生きとし生けるものは呼吸する。
 それは、どこででも、誰にでもそうだ。
 でも、誰かのためにでもないし、誰かのおかげというわけじゃない。

 僕たちは無理やり生まれさせられたのでもなければ、
 間違って生まれてきたのでもない。
 それは、光があたっているということと同じように、
 やがては風が吹き始め、花が実をつけるのと同じように、
 そういうふうに、ずっとずっと前から決まっている決まりなのだ。

 僕たちは、草に頬ずりし、
 風に髪をまかせ、くだものをもいで食べ、
 星と夜明けを夢見ながらこの世界で暮らそう。
 そして、いつかこのまばゆい光の生まれたところに、
 みんなで手をつないで帰ろう。

 常野(とこの)
   権力を持たず、群れず、常に在野の存在であれ という意味。
   そういう理念のもとに、予知能力や途方もない記憶力など人
   並みはずれた能力を持つ一族が昔、共同体を作って人里離れ
   た所に住んでいたという。その人々のことも、住んでいた場
   所も常野と呼ぶ。

2009年5月11日月曜日

山ふぢ



 山廬 
  中天に半月かかる山ざくら

 熱那(あつな)神社
  色あはき八重山桜古やしろ

 甘利山
  むらさきに山ふぢ纏ふ美杉かな




写真提供はフォト蔵さん

変化のための付け方の妙法


【変化のための付け方の妙法】

○前句の情を引來るを嫌ふ。ただ前句は是いかなる場、いかなる人と、其事・
 其位を能く見定め、(前句にない観点を選び)、前句をつきはなして附べし。

○執中の法 前句に対して付くべき物(趣向)は、一字二字三字のものでよく
 あとは付け足しである。このレベルで変化を大きくとらえていけばよい。

○余情付け 前句の余情と同じ響き、匂い、位の意味内容的にあまり関係ない
 句を付ける。

○見立て ある物(柳)を別の物(細身の美人)になぞらえる。
 見立て替え(取り成し) ある見立てをちゃらにし違う見立てをする。

○どんなときでも、俳諧は上下取り合わせて歌一首と心得べし。


リサーチの経緯

写真提供はフォト蔵さん