『貞享式海印録』原田曲斎、安政六年(1859)
貞享式海印録は、以下の本に収録されている。
●俳諧叢書 第四冊『俳論作法集』佐々醒雪・巌谷小波校訂、博文館、1914
電子版が国立国会図書館の近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950166 にアップされた。
●校註俳文学大系 第二巻『作法編』俳文学大系刊行会、大鳳閣書房、1930
都立図書館では閲覧はできるが古い貴重本なので貸出不可とのこと。日本の古本屋
http://www.kosho.or.jp/servlet/bookselect.Kihon でサーチして俳論作法集の方を
ゲット(@2000)した。
■貞享式海印録とは何か
佐々醒雪の解題:
全編芭蕉の伝書といふ貞享式、一名二十五条を根拠として、許多の俳諧に例証を求め、蕉門俳諧の式目を帰納的に論断せんとしたるものなり。
かの二十五条が芭蕉より其角、去来に伝り、去来より支考に伝りたりといひ、又は支考の偽作なりといふ、その当否は今必しも定むるを要せず。
曲斎は芭蕉の出席せる俳諧の巻々を悉く調査し、その足らざるものを、直門の高足等が俳諧によって補ひて、実例を根拠としたる通則を発見し、これを二十五条及び貞徳風と比較したるものなれば、蕉門の式目としては、既に疑念を挿み難き断案を下したものといふべし。
引用せる俳書数百部、芭蕉とその高弟との著は成し得る限り渉猟せるものにして、天明期以前の俳諧の形式は殆どここに尽きたりといふべし。
コメント:
貞享式とは『二十五箇条』のことで、曲斎は、芭蕉ー其角ー去来ー支考と伝わったものと信じている。其角が芭蕉から授与されたのが貞享四年五月としそれゆえ貞享式と呼び、新式とも呼んでいる。しかし、これは昔から支考の偽作とも言われてきており、現代の学者の通説では偽書とされている。芭蕉が言ったかのように書かれたという意味では偽書とは言え、書かれている内容には見るべきものがある。
海印とは、辞書によれば、海が万物を映すように、仏の智慧の海に一切の事物が映し出されることである。曲斎は芭蕉翁の『二十五箇条』を仏の智慧の海になぞらえ、その教えが世の中にどう広まっているか調査し記録したのである。
私も式目で疑義があるときは芭蕉の俳諧ではどうなっているか見ればよいと思い実際に何回がタフな調査をしたことがあったが、貞享式海印録があればもうその必要はない、ありがたいことだ。
■去嫌惣論
連誹に去嫌を立てしは変化の為なれど、当門には前句を転ずる妙法ある故に、強ひて古式に預らずと、其の理を勘破せよと也。つらつら惟んみるに当門専用の式と云うは、春秋五去りにて三より五に及び、夏冬二去りにして一より三に至る。花は折りに一つ。月は面に一つにて、五去りといふ類の外は、凡て臨機応変のさた也。
コメント:
多くの俳論・作法書から抽出した各式目ごとに、芭蕉が参加したすべての俳諧と高弟の俳諧を調査し、式目がどう運用されているか調査した結果の結論であり、重い言葉であった。ほとんどの式目に例外というより破格、変格が存在し、しかもそれらが正格の如く存在していたことが明らかとなった。
「格に入りて格を出でざればすなはち狭く、格に入らざればすなはち邪路
に走る。格に入り、格を出でて始めて自在を得べし。」(俳諧一葉集)
■同字付句不嫌
蕉門には前句の意(こころ)を見かへて付句する故に、いかなる字も付句を嫌はず。但し月花は数に限りあれば付けられず。其余は同字をよく付くるを手柄とする也。
例:汐 一代に又とあるまいこんな事 井炊/御大名にも色々がある 柴友
コメント:
『連歌新式』では同字五句去りで句数については述べていない。連句の『十七季』では同字三句去りで句数一となっている。蕉門の実勢では、付句で前句と同じ字を使ってもよしとしている。
■同字別吟越不嫌
音訓は勿論清濁、引詰にかはりても、異体は越を嫌はぬ事証句に明か也。
例:桃白 雁も大事に届けゆく文 涼葉/眉作る姿似よかし水鏡 濁子/
大原の紺屋里に久しき 翁
コメント:
打越に同字があっても訓みが違えば(要するに物が違うなら)よしとする。
■鳶に鳶の付句
鳶の句は二つの式目の項で例として引用されている。
蒜の籬に鳶をながめて
鳶のゐる花の賤屋とよみにけり (木因宛芭蕉書簡)
菜園集 巻七 春 俳諧歌
蒜の籬に鳶をながめて
鳶の居る花の賎屋の朝もよひ木をわる斧の音ぞ聞ゆる
(芭蕉宛木因返書)
(1)同字付句不嫌の例:
こは翁の鳶の付を真に感ずる人もあり、同物の付を珍らしといふ人もあり。又言勝に道を翫ぶとそしる人もある故に、木因の心を引見んと文通ありけるに、かく翁の腹を探りて答へけるは、実に郢(えい:いやしい)匠の境界也。
(2)案じ方禁物の辨:前句を歌と見立て叶ひたる例:
前句菜園集の端書に似たる故にかく付けたり。若し菊の柵(まがき)とあらば、さは見たてられまじ。
コメント:
付句したのは芭蕉本人と大方がみなしているようだ。芭蕉は前句があたかも和歌の詞書のようなので、機転を利かせてそのままそう見立てて付句をした。
芭蕉は、北村季吟の兄妹弟子(木因の方が2才下)であった木因がそういう機転を利かせた自分の付句をわかってくれるか、ついでに大垣俳壇を引っ張っている木因はその後どの程度進歩したか実力のほどをはかるべく手紙を書いた。
木因は仮想の和歌集『菜園集』をねつ造し、前句をその詞書にして付句を和歌の形にして返してきた。芭蕉は、木因が自分の機転をわかってくれたのを喜び、その後、他の人への手紙にも手柄話として引用した。そういうことなのだろうか。
そう言えば、上に意味深な言葉があった。
●「連誹に去嫌を立てしは変化の為なれど、当門には前句を転ずる妙法ある故に、強ひて古式に預らず」
●「蕉門には前句の意(こころ)を見かへて付句する故に、いかなる字も付句を嫌はず」
これらの言葉の霧も鳶に鳶の付句の一例で一気に晴れるか。
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