2008年1月28日月曜日
歌論『新撰髄脳・近代秀歌』
class:
連歌論俳論
藤原公任『新撰髄脳』
「およそ歌は心深く姿清げに、心にをかしき所あるをすぐれたりと云ふべし。こと多く添へくさりてやと見ゆるがいとわろきなり。一すぢにすくよかになむ詠むべき。心姿相具することかたくは、まづ心をとるべし。つひに心深からずは、姿をいたはるべし。そのかたちを云ふは、うち聞き清げにゆゑありて、歌と聞え、もしはめづらしく添へなどしたるなり。」
藤原定家『近代秀歌』
「やまとうたの道、浅きに似て深く、やすきに似てかたし。わきまへ知る人又いくばくならず。むかし、貫之歌の心たくみに、たけ及びがたく、詞強く姿面白き様を好みて、余情妖艶の体を詠まず。それよりこのかた、その流を受くるともがら、ひとへにこの姿におもむく。ただし世くだり、人の心劣りて、たけも及ばず、詞もいやしくなりゆく。いはむや近き世の人は、ただ思ひ得たる風情を三十字に云ひ続けむことをさきとして、さらに姿・詞のおもむきを知らず。これによりて、末の世の歌は、田夫の花の陰を去り、商人の鮮衣を脱げるがごとし。」
「詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め、及ばぬ高き姿を願ひて、寛平以往の歌にならはば、おのづからよろしきこともなどか侍らざらん。」
注:
寛平 889年〜897年。ほぼ宇多天皇の時代。以往は以前の意。寛平
以前としていわゆる六歌仙時代を指すと考えられている。
六歌仙『古今和歌集仮名序』において紀貫之が挙げた僧正遍昭、在原業平、
文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大伴黒主を指す。
参考文献
『日本の文学 古典編 歌論 連歌論 連歌』奥田勲校注、ほるぷ出版、昭和62年
写真提供はフォト蔵さん
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