西行は三十八才(1155年)と六十九才(1186年)の時に陸奥(みちのく)へ旅をしている。その際に詠まれたと思われる和歌とその詞書を紀行文風に編集してみた。芭蕉はこれらから奥の細道の着想を得たわけではないと否定するだろうか。西行の浮かれ出づる心と芭蕉のそぞろ神は同じなのかも知れない。
みちの国へ修行してまかりけるに、白川の関に留まりて、所柄にや、常よりも月おもしろくあはれにて、能因が、秋風ぞ吹くと申しけん折、何時なりけんと思ひ出でられて、名殘り多くおぼえければ、関屋の柱に書きつけける
白川の関屋を月のもる影は人の心を留むるなりけり (1126)
関に入りて、信夫と申すわたり、あらぬ世のことにおぼえてあはれなり。都出でし日数思ひ続けられて、霞とともにと侍ることの跡、辿りまで来にける心一つに思ひ知られて詠みける
都出でて逢坂越えしをりまでは心かすめし白川の関 (1127)
武隈の松は昔になりたりけれども、跡をだにとて見にまかりて詠める
枯れにける松なき跡の武隈はみきと言ひてもかひなかるべし (1128)
旧りたる棚橋を紅葉の埋みたりける、渡りにくくて、やすらはれて、人に尋ねければ、おもはくの橋と申すはこれなりと申しけるを聞きて
踏まま憂き紅葉の錦散りしきて人も通はぬおもはくの橋 (1129)
信夫の里より奥へ二日ばかり入りてある橋なり名取河を渡りけるに、岸の紅葉の影を見て
名取河岸の紅葉のうつる影はおなじ錦を底にさへ敷く (1130)
十月十二日、平泉にまかり着きたりけるに、雪降り、嵐激しく、ことの外に荒れたりけり。いつしか衣河見まほしくて、まかりむかひて見けり。河の岸につきて、衣河の城しまはしたる事柄、やう変りてものを見る心地しけり。汀凍りてとりわき冴えければ
とりわきて心もしみて冴えぞわたる衣河見にきたる今日しも (1131)
またの年の三月に、出羽の国に越えて、滝の山と申す山寺に侍りけるに、桜の常よりも薄紅の色濃き花にて、並み立てりけるを、寺の人々も見興じければ
たぐひなき思ひいではの桜かな薄紅の花のにほひは (1132)
下野の国にて、柴の煙を見て
都近き小野大原を思ひ出づる柴の煙のあはれなるかな (1133)
同じ旅にて
風荒き柴の庵は常よりも寢覺ぞものは悲しかりける (1134)
陸奥の国にまかりたりけるに、野の中に常よりもとおぼしき塚の見えけるを、人に問ひければ、中將の御墓と申すはこれがことなりと申しければ、中將とは誰がことぞと、また問ひければ、実方の御ことなりと申しける、いと悲しかりけり。さらぬだにものあはれにおぼえけるに、霜枯れ枯れの薄ほのぼの見えわたりて、後に語らんも言葉なきやうにおぼえて
朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて枯野の薄形見にぞ見る (800)
東の方へ、相識りたりける人の許へまかりけるに、佐夜の中山見しことの昔に成たりける思ひ出でられて(西行上人集)
年たけて又こゆべしと思ひきやいのちなりけりさ夜の中山
東の方へ修行し侍りけるに富士の山をよめる(西行上人集)
風になびく富士の煙の空に消えて行方もしらぬわが思ひかな
底本:新潮日本古典集成 山家集 後藤重郎校注
参考:王朝の歌人8 西行 −花の下にて春死なん− 有吉保
参考:西行上人集 http://www.saigyo.org/cgi-bin/cr.rb.cgi?saigyo_syonin-txt
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