2008年12月9日火曜日

短歌一家言


斎藤茂吉「短歌一家言」昭和22年
 (斎藤茂吉選集 第十六巻 歌論、には「短歌道一家言」という題で収録)

○実地(実際)を歌ふ。実地に自然に観入して直裁に歌ふ。

○声調のひびき。

○画の賛などといふものは余り即き過ぎるとおもしろくない。不即不離のところに面白味がある。

○天然に観入すればそこには幾多の自己の象徴たるものがある。

○西洋のものでも、日本のものでもそれが自然にさうなるのが矢張りよい。象徴象徴と狙ったのはどうも僕にはおもしろくない。

○一見客観的に見えるものでも一見主観的に見えるものでも、これを「実相観入」の語に打って一丸となすことが出来る。

○実相に観入しておのづから歌ひあぐるのが即ち歌である。これを「写生」と謂ふ。「写生」とは実相実相と行くことである。そしてその生を写すことである。生はイノチの義である。

○観入の実行を突き詰めて行けばおのづから「感動」は一首の短歌の中に流露する。

○子規は、晩年になるに従つて、ますます万葉調になって行った。古語もどんどん用ゐた。僕もさうである。

○短歌は三十一音の詩であるから、その中に色々の事柄を詰めると余裕が取れずに抒情詩本来の面目がなくなってしまふ。

○情が切実であればあるほど、盛る意味合が単純になるのが自然の行方である。つまり短歌では「単純化」が自然に行はれねばならぬといふことになる。

○短歌の形式は五七、五七と行き軽から初まって重に終ってゐる。即ち一首の形態は三角錐体のごときもので、安定の姿をなしてゐる。この事は結句が好く据わってゐなければならぬといふことに関聯してゐる。

○万葉、古今、新古今は日本の三つの大切な歌集で、革新の何のと言っても、いざとなれば此の三つの歌集を目当としたのである。

○明治三十年、和歌革新の烽火 主義は何であっても偉い者が出なければ駄目だ。
  落合直文の浅香社 与謝野鉄幹の新詩社 佐佐木信綱の竹柏会  
  正岡子規の根岸短歌会 尾上柴舟らの雷会 八杉貞利らの若葉会
 
○新しく変化した歌が古い歌に優ってゐるとは限らず、却って堕落して行った歴史はすでに上に述ぶるところがあった。新しい歌について論ずるものは常にこの理法を知らなければならぬ。けれども作者としては飽くまで自己に執するより道はない。かくしてなほ古人に劣らば、かうべを俯して懺悔すべきである。

0 件のコメント: