2008年12月10日水曜日
茂吉の有妻恋
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本
「斎藤茂吉・愛の手紙によせて」永井ふさ子著、昭和56年
茂吉は昭和11年(満54才)から昭和12年(55才)にかけて、美貌の弟子、永井ふさ子と恋に落ちた。ふさ子の父は、茂吉の師、子規と幼なじみであった。
茂吉は手紙を読んだら焼却するようにその都度指示していたが、彼女はほとんど焼かずに保存していた。斎藤茂吉全集にも載っていない、歌人茂吉の相聞として公開する価値があると関係者から勧められ、コメントを付けて出版した。
* * *
昭和11年の正月の夜、浅草公園の池の藤棚の下ではじめての接吻をした。そのとき巡査に暗がりで何をしているのかと怪しまれ連行されてしまった。
口吸ひて挙動不審と咎められ 春蘭
茂吉 「老山人もふさ子さんの御きまりの時に諦念に入ります」
ふさ子「非常に素朴で純粋で偉い方のようでなく子供の様なところが好きです」
白玉のにほふ処女をあまのはらいくへのおくにおくぞかなしき 茂吉
夜もすがら松風の音きこゆれどこほしきいもが声ならなくに 同
玉のごとき君はをとめぞしかすがにわれは白髪の老人あはれ 同
冷やびやと暁に水を呑みにしが心徹りて君に寄りなむ ふさ子
次の歌は二人の合作だが、ふさ子の下句を評して茂吉は「人麿以上だ」と言った。
光放つ神に守られもろともにあはれひとつの息を息づく 茂吉・ふさ子
(S11.11.17)
男の老いてからの恋は自分ではやめられないものだ、やめるには女の方が去るしかない、とふさ子は茂吉の周辺の人から言われる。二人の秘密のはずの恋愛は周辺にも感づかれていた。原節子より美しいとふさ子に言い寄ってきた人もあっただろう。茂吉は、老残の諦念と恋しさのはざまで疑心暗鬼や嫉妬も加わり、身も狂わんばかりであった。
茂吉「ふさ子さん!ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか。何ともいへない、いい女体なのですか、どうか大切にして無理してはいけないと思います。玉を大切にするやうにしたいのです。」 (S11.11.26)
茂吉は、一度は分別よくあきらめ別れようと思った。
茂吉「あなたはやはり清純な玉でありました。人に怖ぢつつの清い交はりであり
ました。天地にただ二人の清浄なる交流でありました。僕は老残の身をいたはり
つつせい一ぱいの為事をして、世を去りませう。この時に、あなたとの清純な交
流を得たことは非常な幸福でありました。僕は山河に向って号泣しませう。そし
て天地に向って虚偽・計略・残忍等を絶した「生」を幽かに保ちませう。恋しき
人よ。さようなら。」 (S12.1)
と言いながら、この年、80通の文をふさ子に送る。
西の風なま暖く日もすがら吹きしくなべにきみをしぞおもふ 茂吉
きみをこそおもへ
きみぞこほしき
ただにひとこほし
きよき肌はも 々々無限也
昭和12年5月頃、ふさ子は岡山のM氏と婚約する。茂吉はお祝いに短歌を贈る。9月に結納を済ませる。
春の光若葉のまにま照るときをさきはひの道の上にたちます 茂吉
しかし、周辺の人の言葉通り、茂吉の恋は、ふさ子の婚約・結納で逆に燃え上がってしまった。それはふさ子も同じだった。二人は郊外での逢瀬と旅を重ねた。
ふさ子は自責の念から婚約を解消し、茂吉からも身を引く決心をした。東京を去り、松山に帰ったが肋膜炎を再発した。茂吉に直接指導を受けていた歌もやめた。
ふさ子「・・・その草花を摘みながらも、憶いは始終遠く先生のうえにあった」 ふさ子は生涯独身を通したという。
想うだけでやめる分別哀しかり 春蘭
茂吉の歌集「白桃」「暁紅」「寒雲」(昭和8年~昭和14年)の中にある以下の歌はこの恋愛に関係しているようだ。
清らなるをとめと居れば悲しかりけり青年のごとくわれは息づく 茂吉
秋みづの清きおもひをはぐくみてひむがしの野を二人し行かな
くれなゐに染めたる梅をうつせみの我が顔ちかく近づけ見たり
まをとめにちかづくごとくくれなゐの梅におも寄せ見らくしよしも
昭和28年2月25日 茂吉没 満70才
昭和49年10月初め、ふさ子は茂吉の故郷、山形を訪れる。
最上川の上空にしてのこれるはいまだうつくしき虹の断片 茂吉
最上川の瀬音昏れゆく彼の岸に背を丸め歩む君のまぼろし ふさ子
想い出す恋はフィルターかけている 春蘭
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