2009年5月17日日曜日

隠された聖地ーマグダラのマリアへの旅3

■隠された聖地−マグダラのマリアの生地を巡る謎を解く−
ヘンリー・リンカーン(The holy place 『聖地』1991)平石律子訳 監訳:荒俣宏 河出書房新社 1997.1


南仏のレンヌ・ル・シャトー村は、マグダラのマリアが創った巨大な聖地・神殿の中心地であるという仮説を展開している。広範な一帯の山や教会、城、遺跡等を結ぶと正確に巨大な五芒星が描け、パリの子午線もそこを通り、それぞれの遺物が子午線上に等間隔でマッピングできる。これだけ正確なのだから、レンヌ・ル・シャトーを中心とする一帯は、マグダラのマリアの神殿・聖地にちがいないという推論をしている。

リンカーンは、1982年に共著で、『聖なる血と聖杯』(邦訳題は『レンヌ=ル=シャトーの謎−イエスの血脈と聖杯伝説−』)を世に出しベストセラーとなる。

『ダ・ヴィンチ・コード』は、『聖なる血と聖杯』の盗作だと訴えられたが、『聖なる血と聖杯』のストーリーの核心部分(マグダラのマリアはイエスの妻で子も生まれた。現代までイエスの血脈は存続。血脈が聖杯)は一般的で抽象的であり、盗作には当たらないという判決であった。

『聖なる血と聖杯』と『聖地』の原作は10年の開きがあるが、邦訳されたのが同じ年なので、間違えて?こっちを買ってしまった人も多いだろう。レンヌ・ル・シャトーはマグダラのマリアが南仏に逃れてきて、布教をはじめたところで、聖地という論は展開しているが、マグダラのマリアの生地という論は特に展開していないので副題は誇大広告気味。



<補足>
イエスの死後、マグダラのマリアはどうなったのだろうか。一般的な説(ネット上)を集めてたどってみると、

●イエスの死後【エルサレム】
 イエスの死後、マグダラのマリアは、イエスの母マリアと十四年間すごしていた。

●迫害、追放、流刑、脱出【エルサレム】
 エルサレムで迫害を受けたマリアは、イエスが信頼していたヨセフに助けられフランスへ脱出。

 ユダヤ人たちによって帆の無い船に乗せられ流刑にされてしまう。

 もっとも広く流布した伝承によると、ステパノの殉教後、迫害にあったマリアはマルタ、ラザロ、アリマタヤのヨゼフら多くのキリスト教徒たちとともに追放された。

●南フランス漂着【サント・マリー・ド・ラ・メール】
 兄弟や聖人たちとともに南仏カマルグ(マルセイユの西の河口湿地帯)に流れ着いた。

 サント・マリー・ド・ラ・メール(カマルグの先端)に流れ着いた。

 神の加護を得て奇蹟的に船でマルセイユに漂着した。上陸地を「海のマリアたち"Saintes Maries de la mer"」と名づけ、現在でもジプシーの最大の聖地となっている。

●南フランスでの布教【マルセイユ プロヴァンス】
 マルセイユにつき、そこで彼女は宣教をはじめた。

 マリアからイエスの教えを聞いたマルセイユの王と王妃とその国の人々はことごとく、ラザロと聖マクシミヌスから洗礼を受け、マルセイユじゅうの異教の神殿をうちこわしキリストの教会を建てた。一行はその後エクスの町へ行き、多くの奇跡によってたくさんの人を改宗させた。

 プロヴァンス一帯で福音伝道し異教徒の改宗に尽力したという。

●瞑想、修行【サント・ボームの洞窟/砂漠】
 晩年が近づくと、自らサント・ボームの洞窟に入り、そこで生涯を閉じた。

 マグダラのマリアは使徒としての使命を終えると、砂漠に引きこもり、30年の間、誰にも知られずに修行を続け、秘蹟を受けて後、天にのぼった。

 サント・ボームSainte Baume(マルセイユの東30km)の山中の洞窟に隠遁して隠修士となり33年におよぶ瞑想生活ののち、天使に付き添われて昇天したとされる

 サント・ボームの洞窟で瞑想生活をおくり生涯を閉じたとされている。

●埋葬、墓【ヴェズレーのサン・マドレーヌ聖堂/サント・ボーム】
 マリアは手厚く葬られ、聖遺骨はフランスのヴェズレー(Vezelay)の修道院にある。

 サント・ボームの麓の街サン・マクシマン・ラ・サント・ボームに、エクスの初代司教・聖マクシミヌスによって彼女の遺体が葬られたとされる。

 マリアの遺骨が眠るヴェズレー(パリの南東)のサン・マドレーヌ聖堂はフランスで最も重要な巡礼地として多くの巡礼者をひきつけていた。

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