■『マグダラのマリア 無限の愛』ジャクリーヌ・クラン著
福井美津子訳 岩波書店 1996.6
原題:MARIE MADELEINE, UN AMOUR INFINI 1982
本では、フランス語読みで、マグダラのマリアをマグドレーヌ(マドレーヌ)と呼んでいる。「わたし」マグドレーヌの回想と告白が随想あるいは詩の形で語られる。それには苦界に身を置いていた娼婦時代のこともあからさまに書かれている。運命のイエスとの出逢いから別れ、復活、プロヴァンスへの逃避まで、マグドレーヌから見た事蹟が語られる。もちろん、著者の創作=小説である。この本の売りはこれだ。
それを傍証するような形で聖書や神話、外典などを引用して事蹟の解釈・解説がある。「わたし」が語る文章は後ろに行くほど詩的であり、解説は学術的である。はっきり言って、両方ともそう読みやすいものではない。詩的な文章には、比喩や象徴があふれており、邦訳でニュアンスの違う訳をしてるのかなと思わせるところもある。意味的にわけがわからないのが気の利いた詩なのかもしれない(^^)
【最低の境涯に身を置いていた娼婦マグドレーヌは、イエスを一瞥し改悛しイエスに全身全霊で帰依した。イエスは彼女を一番、目の開いた弟子として許し、信頼し、愛した。それを身近でみていた弟子たちは嫉妬した。「イエスは娼婦のようにすべての人に自分を与えた」
特にユダは、最低の娼婦すら罪を許され愛されるなら、最低の密告(それほど大事にはならないはずの)をして懺悔すればイエスに同じように祝福され愛されるだろうと浅はかにも密告してしまった。しかし、その結果、イエスは十字架にかけられた。
あの方は苦界のわれを許しけり
後の世までもついていかまし 春蘭
十字架の下で泣き叫んだ唯一の女性はマグドレーヌだった。そして復活したイエスが最初にあらわれたのもマグドレーヌである。イエスはマグドレーヌの深い信仰のレベルを認めており、後継者と考えていた。しかし現実はそうはならなかった。帆のない舟に仲間と乗せられ追いやられてしまった。
マグドレーヌ一行を乗せた舟は、運良くの南フランスに漂着した。布教ののち、マグドレーヌはサント=ボームの洞窟に住み三十年瞑想の信仰生活に入ったという。サン・マキシマンのマリ=マドレーヌ教会とヴェズレーのサン・マドレーヌ聖堂には、それぞれマグドレーヌの遺骨があるというが本当はどうなのだろう。】
プルーストの『失われた時を求めてースワン家のほうへ』を引用し、そこに出てくる「マドレーヌ」のお菓子は、マグドレーヌのことだという。これからは一礼してからマグドレーヌをいただくことにしよう(^^)
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