「聖杯の探求の目的は、マグダラのマリアの遺骨の前でひざまずくことだ。貶められ、失われた聖なる女性に心からの祈りを捧げるために、旅をつづけたのだよ」
ダ・ヴィンチ・コードの原作はこの言葉で終わる。聖杯の部分であるサングリアル文書は、小説では発見されたようだが、実際には発見されたのだろうか。
1945年12月、アラブ人のムハンマド・アリーがナグ・ハマディという町の近くの崖の洞窟で、パピルスの十三冊の写本を発見した。これはナグ・ハマディ文書/写本と呼ばれる。
その後の解読と研究により、その多くがグノーシス文書であることが判明する。グノーシスとは、正統キリスト教会から、異端扱いを受けてきた主義であり派である。マグダラのマリアは、グノーシス主義者であったと言われる。当時の正統派はペテロに代表される。
*グノーシス主義者 イエスは霊として復活、自己と神は同一、
自分の中に神がいる(注:大乗仏教の自力に通じるか。
グノーシスの思想と大乗仏教の思想は似ているところ
があり、南インドなどで両者の交流があったのではな
いかという学説がある。)
*正統派 イエスは肉体として復活、神と人間は別のもの、イ
エスのみ神の子(注:小乗仏教の他力に通じるか)
*ペテロ イエスを三度知らないと言い、イエス没後マグダラ
のマリアがイエスが霊として復活したと言っても信用
せず、パウロの布教の言葉は誤解を受けやすいと批判。
正統派では、イエスの復活の最初の証人としている。
イエスの生前から両派の主導権争いがあったように見える。イエスの没後はなおさらであったろう。ナグ・ハマディ写本を持ち出さずとも、共同訳の新約聖書の福音書を読んだだけでも、そういうことがあっただろうと感じられる。
ナグ・ハマディ写本は13冊52文書からなる。これは、初期のキリスト教会は今よりもっと単純でもっと純粋であったはずという予想を覆し、初期のころから無数の多様な福音書などが存在していたことを明らかにした。
新約聖書として選択された四つの福音書は、その極一部にすぎないのだ。しかも正統派に都合のいいものが多く選ばれたであろうことはだれでも想像がつく。
マルコ、マタイ、ルカ福音書は共観福音書と呼ばれ似ているが、ヨハネ福音書は似ておらず、グノーシス派はグノーシス文書とみなしているらしい。グノーシス派的な解釈でも読めるということだろう。
しかし、ナグ・ハマディ写本の多くのグノーシス文書の発見によりグノーシス派は、ヨハネ福音書のグノーシス的解釈だけに頼る必要がなくなった。
ナグ・ハマディ写本
●トマス福音書
【イエスが言った、「あなたがたが、あなたがたの中にあるもの
を引き出すならば、それが、あなたがたを救うであろう。あなた
がたが、あなたがたにあるものを引き出さなければ、それは、あ
なたがたを破滅させるであろう。」】
人は神の子、自分の中に神の性質を持っており、自分を見つめ、その神性を発見し、開発せよとイエスは言っている。イエスはグノーシス主義者だったのか。
●ピリポ福音書
【救い主の伴侶はマグダラのマリアである。しかしキリストは彼
女をどの弟子よりも愛した。そして彼は、彼女の口にしばしば接
吻をした。他の弟子たちは感情を害し彼に言った。「なぜあなた
は私たちすべてよりも彼女を愛するのですか。」救い主は彼らに
答えて言った。「なぜ私は彼女を愛するようにおまえたちを愛さ
ないのであろう。」】
新約聖書の福音書にある、愛する弟子とは、マグダラのマリアのことか。イエスはマグダラのマリアを弟子としても女性としても一番愛し信頼していたのか。文句を言っているのはそれに強く嫉妬していたペテロだろう。
●(マグダラの)マリア福音書
【イエスは甦って、まずマグダラのマリアに御自身を現わされた。
マリアはイエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところに行
って、それを知らせた。彼らは、イエスが生きておられること、
彼女に御自身を現わされたことを聞いたが、信じられなかった。
マリアは泣いて、ペテロに言った。「兄弟ペテロよ。あなたはど
う思いますか。私が頭の中で一人でこのことをでっち上げたと思
いますか。それとも、私が救い主について嘘をついていると思い
ますか。」レビはペテロに答えて言った。「ペテロよ。あなたは
今までいつも短気だった。救い主が彼女をふさわしい者にされた
のであるならば、彼女を拒むあなたは、いったい何者なのか。」】
前段と同じ趣旨の記述は、マルコ福音書にもある。イエスの復活の最初の証人は、ペテロではなく、マグダラのマリアだ。後段は、マグダラのマリアの反対者と追随者が弟子の中にいたことと、イエスは教団の後継者としてマグダラのマリアを選択したのではないかとも感じさせる記述だ。
はしがき
仏教でも釈迦は相手の知識や機根、修業の程度、霊的な円熟度に応じて教えを説いたと言われる。機根の低い者には奇跡物語や寓話、譬え話を用いる。小乗は実は大乗へ至るための方便であった。参考文献によれば、キリスト教においても同じことが起こったのだと言う。マグダラのマリアは霊的な円熟度が高く、イエスは譬え話ではなく奥義を教えたと。奥義とは自己と神の合一の認識にいたる道なのだろうか。
■参考文献 ナグ・ハマディ写本−初期キリスト教の正統と異端−
エレーヌ・ベイグルス 荒井献・湯本和子訳 白水社
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