2009年10月9日金曜日

ゆめゆめ学ぶまじき人の有様なり

『去年の枝折』上田秋成
(こぞのしをり)

原文:
二箇といふ里に日暮ぬ。我より先にやどる人有。修行者と見しかば、へだてのさうじ明やりて物がたりす。いづこへの修行ぞと問へば、身は雲水にまかせたれど、仏菩さつに後の世の事のみ打頼めるにあらず。風月にふかく心をそみて、我翁の跡おちこち尋ねあるくなるはと云。

意訳(いい加減な):二箇という里に来て日が暮れた。私より先に宿についた人が居た。修行者のように見えたので明るい障子越しに話をした。「どこへ修行に行かれるのですか。」と聞くと、「私は行脚僧ですが、仏や菩薩に自分の後の世を頼むためばかりではなく、風雅に心惹かれ我が翁が旅したゆかりの跡をあちこち訪ね歩いているものです。」と言う。

原文:
いとよし有げ也。翁とは何人のうへにて、かくまでしたはせ給ふらんと云。法師いと興なげにて、旅人も頭まろくおはすれば、風雅の道も心得たまひて、かく野山をば分させ給ふにとおもひしに、あからさまに我翁をしらぬよしに聞え給ふは、青き嚢をうながせて、日々に奔走する風塵の士にてやおはす。

意訳:とても事情がありそうなので、「翁とはどなたのことですか、そこまであなたを慕わせるお方とは」と聞いた。法師は大変興ざめの体で、「旅人であるあなたも頭を丸めているので、風雅の道を心得て、このように野山を分け入って旅をされていると思いましたが、まるで我が翁をご存知ないように聞こえますが、さしずめあなたは青い袋を持って日々奔走している乱世の侠客のみたいですね。」

原文:
我翁と云は、元禄のいにしへ人にて、故実を拾穂の門に学び、道を仏頂の言下に参禅し、杜律山家の骨肉に入て、柿園の枝葉の茂きをかり払ひ、檀林の根ざし広ごれるを剪つゝ、邪路をふさぎて、正風の一体を興立したまふ。其旨とするや鷲嶺の説法、聖王の礼楽をも態々学ぶまでもあらず、人生の常ある理りをただ十七字の中に会して、朗然たる事暁のほしにあへるが如し。

意訳:「我が翁とは、元禄時代の人で、古典を北村季吟(拾穂軒)に学び、仏道は仏頂禅師に参禅し、杜甫の律詩、西行の山家集を体得し、歌聖柿本人麿の末流の茂った枝葉を刈り払い、談林派俳諧が根を伸ばしはびこるのを切り、邪道を塞いで、正風を興されました。その教えは釈迦が霊鷲山(りょうじゅせん)で説いた法華経、古代中国の聖王が用いた礼楽をわざわざ学ぶ必要もないものです。人生の変わらない理わりをたった十七字の中に理解できそれは暁の星のように明瞭です。」

原文:
扨其楽しきは先心を常に太虚に遊ばしめて、深き山にいり、江に釣、花の林も雪の野路にも、足を疲らさず眼をいためず、縉紳諸侯のお前に交るかとすれば、吾妻の歌舞伎難波の不夜城にも心をやりつゝ、しかも徳を損せずして変化縦横はかるべからず。

意訳:「さて、その楽しい教えとは、先ず心を宇宙(森羅万象)に遊ばせ、深い山に入るかと思えば、河口で釣りをし、桜の林や雪の野道に、足を疲れさせず眼を痛めることなく行くことができる。威儀を正して官位が高く身分ある諸侯の御前に居るかと思えば、江戸の歌舞伎、大阪難波の不夜城にもいける、しかも人間としての徳を損なうことはなくその千変万化は計り知れない。」

原文:
況や君臣父子妻妾の情を、ただ一巻のうちに連綿と尽さざる事なし。京極黄門再び世に出たまふとも、我翁にはうなづかせ給ふべし。医師もいとまあらば時々学ばせ給へ、自愛の薬、鍼浴湯水剤の及ぶべからぬをと、口疾くもかしこく説きこえたり。

意訳:「さらに君臣、父子、妻妾の人情を一巻の内に連綿と言い尽くすことができる。藤原定家が再び世に現れたとしても、我が翁は定家を納得させるであろう。医者も暇があれば時々学んでほしい。この自愛の薬には、鍼や温泉、飲み薬は及ばない。」と早口に熱弁した。

原文:
思ひがけず珍らかに承侍りて、いとまあらば学び侍らんと言すくなにあへしらふに、猶すずろぎて、学ばんとおぼさば、便につけて難波の御許に立よるべくいふ。いとかたじけなきよしにて、あらぬ名どころ書付さす。

意訳:「思いがけなく貴重なお話をうかがいました、暇ができたら学んでみます。」と言葉少なくあしらったら、なおもそわそわした感じで「学びたいとお考えなら、手紙を下さい。難波のあなたのお住まいに立ち寄りましょう。」と言う。それはありがたいという風を装いながらでたらめの住所氏名を書いて教えた。

原文:
寔やかの翁といふ者、湖上の茅檐、深川の蕉窓、所さだめず住なして、西行・宗祇の昔をとなへ、檜木笠竹の杖に世をうかれあるきし人也とや、いともこゝろ得ぬ。

意訳:たしかに彼の翁という者は、琵琶湖ほとりの幻住庵、深川の芭蕉庵と一所と定めずに庵住し、西行や宗祇の昔を追慕して、檜笠に竹の杖で世の中を浮かれ歩いた人と言うが理解できない。

原文:
彼古しへの人々は、保元・寿永のみだれ打つづきて、宝祚も今やいづ方に奪ひもて行らんと思へば、そこと定めて住つかぬもことわり感ぜらるゝ也。今ひとりも嘉吉・応仁に世に生れあひて、月日も地におち、山川も劫灰とや尽ずなんとおもひまどはんには、何このやどりなるべき、さらに時雨のと観念すべき時世なりけり。

意訳:西行の時代は保元・寿永の乱が続き天皇の位も今や何処に奪われて行ったかという乱世であり、そこと定めて一カ所に住み着かない理由も理解できる。もう一人の宗祇の時代も嘉吉・応仁の乱の乱世であり、民衆の日々の生活は地に落ち、山川も大きな災難の名残りをとどめており、どこに住もうか思い迷うのは理解できる。世にふるもさらに時雨の宿りかな(宗祇)と観念すべき時世であった。

原文:
八洲の外行浪も風吹たゝず、四つの民草おのれおのれが業をおさめて、何くか定めて住つくべきを、僧俗いづれともなき人の、かく事触て狂ひあるゝなん、誠に尭年鼓腹のあまりといへ共、ゆめゆめ学ぶまじき人の有様也とぞおもふ。

意訳:日本の外の浪風は日本には吹き立たない。乱世ではない日本において、士農工商のすべての国民はそれぞれの仕事を身につけて、どこか一カ所に住み着くべきである。それなのに、僧侶とも一般人とも言えない人が、安住ぜずに前述のようなことを言い触らして日本を狂い歩くとは、まことに君主堯の故事(堯が変装して民が政治に満足してるか視察に出掛けたら老百姓が君主を讃える歌を腹をたたきながら歌っていた)と似ていないこともないが、決して人間として真似したり学ぶべきありようではないと思う。

感想:
共感。芭蕉は先人をまねて、ふり(作為)をしたのだ改めて思う。作句で作為をしてはいけないと言ったことと矛盾しないか。

    吉野山去年の枝折の道かへてまだ見ぬ方の花をたずねむ  西行

参考文献:
江戸人物読本 松尾芭蕉、楠元六男編、ぺりかん社 1990年
上田無腸
西鶴、芭蕉、そして秋成のこと
      
      

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