芭蕉の軽み(問題提起)
芭蕉の軽み(情報収集)
芭蕉の軽み(感想的私論)
去来は、重い情を重い言葉で詠めば重み(重くれ)となりよくない、重い情は軽い平明な言葉で詠めと言っているか。これは昔から現代まで俳句や他の文芸・芸能でも言われていることのようでわかりやすい。
許六の理解する軽みは、一見逆説的で難解だが赤羽氏はこれが芭蕉の言わんとしたところに一番近いのではないかという。「かるきといふは、発句も付句も求めずして直に見るごときをいふ也。言葉の容易なる趣向のかるき事をいふにあらず。腸の厚き所より出て一句の上に自然ある事をいふ也。」「面白く俗のよろこぶ所のしみつきたるごとき事を、おもきといふ也。かるきと云ふは言葉にも筆にものべがたき所にえもいはれぬ面白き所あるをかるしとはいふ也。」 しかしこれを一般に理解させるには骨が折れそうな論ではある。
芭蕉の軽みを高悟帰俗と軌を一にする通俗性の強調とする潁原退蔵氏の単純明快な見解に賛成する。この立場から炭俵のむめがゝにの巻を見ると、たしかに通俗的な情や言葉がほぼ途切れなく盛り込まれている。いくつか面白い句は散見されるが、こういう俳諧を芭蕉は本当に至上としたのかという疑問が湧き上がってくる。
芭蕉はなぜ晩年になって軽みを提唱したのだろうか。芭蕉は風雅の誠をダイレクトに求めてまじめな重み路線とも言える、わび、さび、しをり、ほそみなど枯淡閑寂な理念を打ち出し突っ走ってきた。芭蕉は新風の提唱を続けないと自分の存在価値がなくなるという強迫観念にとらわれていたのか次の新風を探った。芭蕉は元談林の俳諧師だった。そのころの師宗因の軽みや自分たちがやっていた俳諧の軽みや面白みをふと振り返ったのか。「悪党芭蕉」で嵐山氏は、芭蕉は当時大人気になっていた作為による軽み(許六はこれを重みと呼ぶ)とも言える其角の洒落風俳諧に、不作為の軽みで対抗しようとしたのだと述べている。
江戸の其角や嵐雪などの門人は芭蕉の軽みを屁とも思っていなかった。不作為と言っても結局、通俗性の強調に過ぎない軽みは新風でもなんでもなくそんなことは自分たちがずっとやってきた風潮の一つあるいは下地にすぎない。師芭蕉だけがまじめ路線で突っ走り重みの隘路にはまり、そこから脱却するため軽みをひとりで叫んでいるだけではないのかと。
芭蕉の軽みの提唱は、芭蕉没後の蕉風俳諧の堕落を促進した。軽みは風雅の誠があってこそ本来の効果を発揮する。芭蕉がいなくなって蕉門各派とも風雅の誠が薄れた。風雅の誠がなくなった軽みは必然的に軽口、軽薄、卑俗へと堕ちていき正風俳諧は消えてしまった。
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