『とくとく歌仙』&『すばる歌仙』丸谷才一、大岡信ほか
三吟の13歌仙、両吟の2歌仙、合計15歌仙について、一句ずつ説明し、枚数の大半はこれに費やされている。句を詠む人は一般に自句を解説することが大好きなようであるが、私はするのも聞くのもあまり好きではない。多くの芸術と同じように作品を読む個人ごとの印象・感想・解釈でよいと思うからだ。
『とくとく歌仙』の冒頭に「歌仙早わかり」があり、彼らの俳諧(連句)観をかいま見ることができた。
○現代俳句で歌仙の発句にならない句がある。それは完結して人を寄せ付けない(二の句が継げない)句だ。発句は余情として挨拶性があり、他者に心を開いている。発句にならない俳句は、言い切ってしまって余情がなく、他者への呼びかけもない。これは現代俳句の大問題であろう。(芭蕉の言葉「謂い応せて何かある」を思い起こせ。)多くの現代俳人はうすうす感じてはいるようだが、耳が痛いのか、俳句が変になると思ってか、連句と聞くとパッと心を閉ざす人が多い。
○第三は、難しい。発句と脇の挨拶の世界から離れる。動きのある句をもってくるのがコツだ(丸谷)
○四は、軽くさりげなくきれいに。遣句としてもよい。
○月、花の句ははじめから用意しておいてもよい(手控えの句)
○素春(花なし)は一回はオーケー。でも早めに。
○芭蕉の歌仙は『古今集』『新古今集』を読み抜いたことによってできたという感じがする。連句の技術は編集の技術だ。
○『武玉川』は歌仙の雑の句からなっている。日本のいまの俳人たちは自分たちを支えてくれているものは、ああいうものだということをもう少し認識しないといけない。認識しないから、痩せ細っちゃうというところがあると思う(大岡)現代俳人は滑稽な句をつくれないからね。だからつまらないんだね(丸谷)
○歌仙の半分には雑がないと面白くない。雑の人事の滑稽な句が大事。2句以上は続けたい。そして抒情的な句(やはり2句以上)とラリーをするとよい。
○井上ひさしさんの付けで、想像した状況や経緯も含めて多くのことを575の一句の中に詠み込もうとしてえらい苦労したことがあった。一句の中でストーリを作るのではなく、一句は断片の場面で、場面が連句として集まってストーリになるということを忘れてはいけない。初心が陥りやすい。
○自分の思い込みであったが、前句と同じ時間軸で詠まなければならないということはない。(丸谷)
要するに、現代俳人は連句をしなさい、そして失なわれた開いた心と余情、滑稽を取り戻しなさい、と両氏は言っているようだ。
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