川柳の定義・川柳と俳諧
『川柳の群像』明治・大正・昭和の川柳作家100人
東野大八著/田辺聖子監修
●川柳の定義 福田山雨楼
「川柳の本質は、所謂川柳味と称せらるる要素、即ち
ユーモア、諷刺、穿ちがその主流をなしている。川柳
味とは人間愛の華である笑いを中核とした、川柳独特
の表現力を指すのであるが三要素に限られたものでは
なく、洒落・機智・軽味・写実味・超越味・感覚味等
をも豊かに包容するものである。この川柳の幅のある
姿は、古川柳から伝承した俳諧の正系をうちたてるも
のである。
川柳には俳句におけるような季題とか切れ字等の約
束はなく、十七音字定型の中であくまで自由奔放、平
談俗語に親しみ、警抜な表現を上乗とする。俳句が花
鳥諷詠、造化にしたがい四時を友とし、ややもすれば
非人情の境地、風雅と脱俗の世界に憧れるのに対して
川柳は人情の世界、市井田圃の俗っぽい社会行住座臥、
日常茶飯の営み、勤労と余暇生活の真只中から、人生
の歓喜と苦悩を味わい、そこに素の風流、即ち俗の真
を見出さんとするところに真骨頂が存するのである。
これを要するに川柳を貫く精神は、あくまで民主的
なものであり、時代に即しユーモアを中核とした思想
、生活感情を民衆の立場から自由犀利に表白するもの
である。昭和二十二年五月実施された日本の新憲法が
自由、真理、正義を盛りたてんとする根本精神と一脈
相通ずるところがあり、文化国家として再建を期する
、わが国民大衆の手で伸びてゆく寛ろぎの文学である。」
これは岸本水府の番傘川柳社が昭和二十二年に公募し
た「川柳の定義」の第一席に入選した福田山雨楼の論
文である。
山雨楼は麻生路郎(「川柳雑誌」)に傾倒、昭和二十
九年副主幹に推される。川上三太郎(「川柳研究」)
は山雨楼を譲って貰えないか路郎に幾度も申し入れた
という。
感想:
川柳結社が川柳の定義を一般公募するというのは話が
逆のようで面白い。一口に新川柳と言っても多くの流
派があり、これはという方向を各派が模索していたこ
とをうかがわせる。
三太郎は古川柳、新川柳の二刀流で、上の山雨楼の川
柳の定義はその立場の理論武装にもってこいのように
も見える。
●川柳と俳諧 前田雀郎
「川柳を俳諧につないで考えたのは、私が早いかと思
っております。したがって私のいま川柳に於てこころ
ざすところもそこにあります。つまり俳諧の平句の心
持に立って川柳する。これが私の、主張というよりも
実践であります。
古川柳については、川柳が柳多留の作品を天井とす
る限り、いつかはまた頭を打って、狂句に堕ちるのほ
かはないと思われます。それが怖いので、そこをつき
ぬけ、もっと自由なものが待つところへ出てみたいの
であります。おそらく初代川柳も、同じような考えを
持って、俳諧に対したに違いありません。そこから彼
は、収月点の前句付を出て、新しい彼の俳諧を生みま
した。私もそうありたいと願っています。」
感想:
わが意を得たりと思う文に出逢った。俳諧心で川柳す
る、川柳心で俳諧する、ともに共感できる。
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