復本一郎『俳句と川柳 ー 笑いと切れの考え方、たのしみ方』
講談社現代新書、1999年
エキス:
■ 笑いの後退
現代の俳句から笑いが消えた。川柳もその恐れがある。笑いを伴う「穿ち」が後退している。両者への笑いの復権を提唱したい。
俳句は俳諧の発句、川柳は俳諧の平句(発句、脇、第三以外の句)をルーツとする。「滑稽のおかしみを宗とせざればはいかいにあらず」と許六も言っている。
その師、芭蕉は古今多くのひとから笑いを後退させた張本人とされている。談林の在色は、蕉風の俳諧を連歌の腰折れと呼んだ。俳諧の滑稽・利口が欠如しているというのだ。
芭蕉は滑稽を最後まで意識していたと思うが、さびなどの強調により滑稽を希薄にしたのはたしかだろう。
子規は俳句の滑稽には雅味、品格、趣きが必要とし滑稽句を詠んでいた。写生説の主張とともに笑いの要素は希薄になっていった。
■ 俳句と川柳の違い
川柳的俳句、俳句的川柳は両方ともだめだ。特に現代川柳作者に俳句っぽい句が多い。そして両者の違いは微妙と平気で答える。柳俳一如という輩までいる。
<俳句> <川柳>
季語必須 季語任意 無季俳句を認めると違いがない
自然 人事 そうとも言い切れない
叙情 批判 そうとも言い切れない
笑い 笑いのある「穿ち」 これが先ず必要
切れあり 切れなし 違いはこの一点である
■「切れ」とは
著者は一句に完結性と二重構造性(二句一章?)をもたらすものとして独自の論を展開しているが分かりにくい。ネットで素晴らしい説明がみつかったのでそれで代用する。
【「切れ」とは,句の途中に置いて一句を意味的に,もしくは構造的に二つの部分に分けたり,あるいは最後を強く言い切ったりすることにより,俳句に立体感,奥行き,飛躍,そして詩的感動と余韻を持たせる工夫】
http://www.alpha-club.org/page03_01/cut-translation.htm
切れは必ずしも切れ字を必要としないこと。切れ字を使えば必ず切れるというものでもないことを留意したい。
■感想
俳句も川柳も笑いが後退しているとすると、それらで構成される現代の俳諧(連句)も笑いが後退することになるだろう。たしかに腰折れ連歌風になりがちだ。
川柳には切れ字を使った例がないわけではない。こういうとき切れ字で切れていてはいけないのか。切れ字を使わなくても切れるとすれば、切れている川柳もありそうだが。
私は川柳にはやはりうなづける笑いを伴う「穿ち」があってほしいと思う。江戸川柳(古川柳)のように。
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