2006年09月06日16:26
嵐山光三郎 新潮社 2006年
買うまでもないだろうと図書館に予約して2ヶ月、半日で読んだ。悪党芭蕉というのは案の定、キャッチ・コピーに過ぎず、芭蕉が悪行をしたわけではない。強いて言えば、弟子がよく理解できない概念を振り回し、新風と称して弟子を悩ませ、結果多くの離反者を出し、蕉門をばらばらにしたことか。
前書『芭蕉紀行』の方が面白く読みやすかった。前書と重なっている部分も多々あることと、俳論や歌仙の解釈、句評に深入りしちょっと大部になりすぎているからかも知れない。目新しかった部分のみメモ。
●古池や蛙とびこむ水の音 芭蕉
著者は池で観察したが、蛙は音を立てて水に飛び込みはしないからこれは芭蕉のフィクションだと言う。畦や池のまわりを歩いたとき、私は蛙が次々水に飛び込む音を聞いたことがある。ぽちゃん、ぽちゃん。芭蕉が池の畔を歩いていたならあり得る。著者はまだ観察が足りない(^^)
●其角の改竄
『俳諧問答』に載っているが、去来は芭蕉の不易流行論や新風に従おうとしない其角をなじった。其角は返事をせず、その文(芭蕉の言葉の部分)を改竄して自分の撰集に載せた。
元の文:「風雅の誠を知らば、しばらく流行のおなじからざるも、又、相はげむのたよりなるべし。」
改竄後:「ともに風雅の神を知らば、晋が風興をとる事可也。」
●作為と無作為の句の差はつけにくい。芭蕉は弟子に作為の句だとよく指摘するが、昔は本人もそうだったし後年でも作為と思われる句はある。芭蕉は作為を消す方法を知っていた。
●不易・流行はわかるようでわからない。去来も許六もわかったようなことを言っているが実はわかっていなかった。流行として「軽み」が出て離反者を多数出す結果となった。其角は芭蕉の「軽み」など屁とも思っていなかった。
●芭蕉は、才能ある弟子でも才が鼻につくと捨てた。弟子としてはへりくだって追随するか、出て自ら新風を起こすしかなかった。 其角は才能のある弟子を見つけるのがうまい人材ハンターであった。彼は芭蕉の性癖を熟知していてうまく身を処した。芭蕉が大嫌いな西鶴の大矢数の後見を其角がしても破門にはならなかった。
●江戸など庶民の間では点取り俳諧が隆盛し、其角はその頂点に居て芭蕉より人気があった。時代遅れの師範と思われた芭蕉に出る幕はなく、芭蕉が時流についていけなくなった格好。芭蕉が血迷ったように新風を吹聴したのは、自分の存在を世に示そうとしたためか。
●「軽み」の継承者として、芭蕉は洒堂に目をつけたが、洒堂と之道の仲裁(洒堂が之道の弟子を横取りしようとした)をしようとしてうまくいかず寿命を縮めた。結局、洒堂は切り捨てられた。
●芭蕉没後、其角がいろいろ仕切り、実質、蕉門の跡取りとして振る舞ったが、蕉門の分裂の引き金も引いた。分裂を承知で故意に其角は撰集「句兄弟」で、自分の句の兄として西鶴の句、弟として芭蕉の句を位置づけ並べた。
コメント
こう見てくると、どんなときにもでんと構えて中心にいたのは、芭蕉ではなく其角という感じがする。
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