2007年02月21日19:56
芭蕉は、「宗因なくんば我々が俳諧今以、貞徳の涎をねぶるべし。」と、談林の西山宗因を評価している。そして貞門の松永貞徳を評価していない。作法書についても貞徳の『御傘』は信用しがたしとしている。
蕉門の高弟でありながら、談林の西鶴に接近したり、芭蕉の新しい美的理念を追おうとせず、他の弟子達から評判の悪かった其角は、俳諧の先達として一体だれを評価していたのか。一人は、その大矢数俳諧を支援し、『句兄弟』において兄とした西鶴に間違いないだろう。
●飯尾宗祇 (1421-1502)
新撰菟玖波集 俳諧の始祖(少数説)
○山崎宗鑑 (???? -1539)
犬筑波集 俳諧の始祖(多数説) 卑俗奔放な句風
●荒木田守武(1473-1549)
守武千句 俳諧の始祖(多数説)
○松永貞徳 (1571-1653)
貞門宗匠 御傘 言語遊戯的
新増犬筑波集(淀川・油糟の総称) <物付>
●北村季吟 (1625-1705)
貞門 新続犬筑波集 誹諧埋木
●西山宗因 (1605-1682)
談林宗匠 晩年連歌に戻る <心付>
○井原西鶴 (1642-1693)
談林でも異端? 大矢数俳諧 自由奔放な句風
●松尾芭蕉 (1644-1694)
蕉門宗匠 師:北村季吟、西山宗因 <余情付>
○宝井其角 (1661-1707)
蕉門でも異端? 江戸座宗匠 自由奔放な句風
其角は『いつを昔』元禄三年に、以下のように述べている。
【近くは山崎の宗鑑、伊勢の守武、飛騨竹田の高名をふるひしに、又、花咲の翁(貞徳)といふ人有けり。俳諧に妙なる人にて、かの宗鑑が犬つくばに根次して淀川・油糟と名付、世にたてひろげて。。。
さる中頃、守武が千句のあら削なる風にならって、一句木に竹をつぎて物数奇するたぐひありけるを今めかしきに目うつりて悦ぶ人多くものせしかば、此道かたへは破損に及びしなり。】
江藤保定氏は、『宗祇の研究』において、この文章から、其角は、宗鑑と貞徳を評価していること、守武と守武千句の風をならった談林を全く否定しきっているとしている。
ウィキペディアでそれぞれの句風の部分を抜き出したら、其角が好きなのは、自由奔放な句風、言語遊戯的な句風ということで一致した。さもありなん(^^)
其角は蕉門の高弟ではあるが、蕉風の句風(枯淡閑寂幽玄、余情
付)とは違い、いわば異端児(自由奔放、言語遊戯的、物付、心付)であったようだ。器用な其角は必要とあれば、蕉風の句を詠むことはできたであろう。
ここで、芭蕉にも貞門の北村季吟、談林の西山宗因に師事した時代があり、そのときの芭蕉の句は自由奔放、生気溌剌な句風であったことに注意しなければならない。だからこそ、他の弟子が其角を難じても芭蕉は弁護したのだろうか。
機智頓才は其角にかなわない、座や大衆が喜ぶような句を其角は簡単に作れるが自分はできない、自分には後によく味わうと沁みるような句しかできないと芭蕉は他の弟子に言ったという。
結論
其角が面白いと思った先達は、西鶴、宗鑑、貞徳ということになるだろう。逆にその他は面白いと思わなかったということか。その中には芭蕉も入ってしまうことになるが。
次は、宗鑑の『犬筑波集』あたりをまずながめて見よう。
参考文献
(1) 江藤保定『宗祇の研究』風間書房
(2) 鈴木棠三『俳諧の系譜ーその笑い』中公新書
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