2007年03月11日16:39
其角は『句兄弟』の最後、三十九番目に自分と芭蕉の句を並べ、自分を兄、芭蕉を弟としている。『句兄弟』が刊行されたのは芭蕉が亡くなった元禄七年。これをもって其角はあえて蕉門の分裂の引き金を引いたのだとする論者もいるようだ。
この二句に関しては、『句兄弟』に其角の評、『三冊子』に芭蕉の評、『十論為弁抄』に支考の評が載っている。其角の評の後段の意味がよくわからないが、両者の俳諧観の違いがここに尽きているのかも知れない。支考は両者の本質を見抜いているようだ。
『句兄弟』三十九番
兄 晋子
聲かれて猿の歯白し峯の月
弟 芭蕉
塩鯛の歯茎も寒し魚の棚
(or 塩鯛の歯茎は寒し魚の店)
●其角『句兄弟』 其角の評
是こそ冬の月といふべきに山猿叫ンデ山月落と作りなせる物すごき
巴峡の猿によせて峯の月と申したるなり
(自分の句は冬の月と言うべきだが、漢詩の題材にある山猿叫んで
山月落つと作りなしたものすごい巴峡の猿を思い寄せて峯の月と
詠んだ)
沾ホス衣ヲ聲と作りし詩の余情ともいふべくや
(衣を沾(うるほ)す声と作られた詩の余情とも言うべきか)
此の句感心のよしにて塩鯛の歯のむき出したるの冷しくやおもひよ
せられけん
(師芭蕉はこの句に感心したようで、塩鯛が歯をむき出したさまに
冷冽を思い寄せられこの句を作られたのだろう)
衰零の形にたとへなして老の果、年のくれとも置れぬべき五文字を、
魚の店と置れたるに活語の妙をしれり
( 衰え落ちぶれた形に譬え直して、下五を老いの果とか年の暮れと
もすべきところを、魚の店としたところに活語の妙を知った)
其幽深玄遠に達せる所余はなぞらへてしるべし
(その幽玄深遠に達せられたところを私はたどって知るべきである)
此の句は猿の歯と申せしに合せられたるにはあらず
(師の句は、私が猿の歯と詠んだのに合わせて詠まれたのではない)
只かたはらに侍る人海士の歯の白きはいかに猫の歯冷しくてなどと
似て似ぬ思ひよりの発句には成まじき事ともに作意をかすめ侍るゆ
へ予が句先にして師の句弟を分
(ただ、傍におられる人が、海士の歯白しとか猫の歯冷し(すずし)
などと似ているようで似ていない思いつきの句を言い出したが、
それらは発句には成り得ないだろう。師の句も傍の人の句も私の
句の作意を掠めとっていると言えるので、私の句を兄、師の句を
弟に分けたのである)
其換骨をさとし侍る師説もさのごとく聞こえ侍るゆへ自評を用ひず
して句法をのぶ
(換骨奪胎についての師の教えもそのように理解できるので、自己
流の評釈ではなく、換骨奪胎の観点から反転の法を述べた)
此の後反転して猫の歯白し蜑の歯いやしなどと侍るとも発句の一躰
備へたらん人には等類の難ゆめゆめあるべからず
(この後、私の句を換骨奪胎(反転)して猫の歯白し、蜑の歯いやし
などと詠んだとしても、発句の一体を身に付けた人であれば、
等類と難じられる恐れは決してないであろう)
一句の骨を得て甘き味を好まず意味風雅ともに皆をのれが錬磨なれ
ば発句一ツのぬしにならん人は尤兄弟のわかちをしるべし
(骨があり、甘美ではなく、情趣のある句を作るには皆自分の錬磨
次第である。発句を一句でもものにしようとする人は当然ながら
兄弟の分ち、すなわち換骨奪胎(反転)の法を知らなければなら
ない)
換骨:古人の詩文の発想・形式などを踏襲しながら、独自の作品
を作り上げること。他人の作品の焼き直しの意にも用いる。
●土芳『三冊子』 芭蕉の評
原文:
塩鯛の歯ぐきも寒し魚の棚
此の句、師いはく。思ひ出すと句に成るもの自賛にたらずと也。鎌倉を生きて出けん初鰹 といふこそ、心の骨折、人のしらぬ所也。又いはく、猿の歯白し峯の月 といふは其角也。塩鯛の歯ぐきは我老吟也。下を魚の棚とただ言いたるも自句也といへり。
解釈:
この句について師(芭蕉)は、その情景を思い出すと自然に句になるような作品は苦心したのではないから自賛に値しないと言った。鎌倉を生きて出けん初鰹(葛の松原)という句を詠んだときの自分の心中の苦心はいかばかりであったことか、それは人の知らないところだ。
聲かれて猿の歯白し峯の月 という句は其角作だ(が同様であろう)。塩鯛の歯ぐきの句は自分の老吟である。下を魚の棚とただ平凡に言った点も(鎌倉の句や其角の句とは違い)自分流の句であると言った。
●支考『十論為弁抄』 支考の評
原文:
されば其角の猿の歯は、例の詩をたづね、歌をさがして、枯れてといふ字に断腸の情をつくし、峯の月に寂寞の姿を写し、何やらかやらあつめぬれば、人をおどろかす発句となれり。
祖翁の塩鯛は、塩鯛のみにして、俳諧する人もせぬ人も女子も童部(わらんべ)もいふべけれど、たとひ十知の上手とても及ばぬ所は下の五文字なり。ここに初心と名人との、口にいふ所はおなじなれど。意にしる所の千里なるを信ずべし。
今いふ其角も、我輩も、たとへ塩鯛の歯ぐきを案ずるとも魚の棚を行き過ぎて、塩鯛のさびに木具の香をよせ、梅の花の風情をむすびて、甚深微妙の嫁入りをたくむべし。祖翁は、其日、其時に神々の荒の吹つくしてさざゐも見えず、干あがりたる魚の棚のさびしさをいへり。誠に其の頃の作者達の手づまに金玉をならす中より、童部もすべき魚の棚をいひて、夏爐冬扇のさびをたのしめるは、優遊自然の道人にして、一道建立の元祖ならざらんや。
参考文献
(1)『句兄弟』in 珍書百種. 第1巻 / 宮崎三昧編,春陽堂, 明27.8
http://kindai.ndl.go.jp/index.html
(2)『三冊子』、連歌論集俳論集 日本古典文学大系 岩波書店
(3)『三冊子』、日本名著全集 芭蕉全集
(4) 宝井其角全集−編著篇− 石川八朗編 勉誠社
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