2010年2月25日木曜日

枕草子を読む

2006年04月30日19:45

【清少納言の生い立ち】
受領で歌人、清原元輔を父として、966年頃生まれる。曾祖父に
歌人の深養父がいる。981年頃、橘則光と結婚、則長を生む。
991年受領の藤原棟世と再婚、娘を生む。993年頃、中関白家
の道隆の娘、中宮定子に出仕。中宮が亡くなり、1000年頃、宮
仕えをやめ、月輪山荘に隠棲。枕草子は1001年頃から1010
年頃に書かれたと見られている。没年は1025年頃か。

【枕草子の内容】
●よいと思うもの、悪いと思うものの列挙 
 列挙するに当たり、物事別(春はあけぼの、山は、鳥は、関は、
 など)と感情別(心ときめくもの、にくきもの、すさまじきもの
 など)がある。これが、枕草子は連想の文学と言われるゆえん
 となっている。清少納言の好き嫌いと価値観が明らかになる。
 共感できなくても、読者にとっては話題のねたとして役立っただ
 ろう。

●宮仕え中の出来事の回想
 中宮の寵愛や宮中に出仕する男の友人(行成など多数)との交遊
 の自慢話がどうしても多くなる。性格が明るくものおじせず、積
 極性があり、機知にとんだ受け答えをするので、恋の相手として
 ではなくとも、男性から好かれたようだ。

 中宮から「少納言よ。香炉峰の雪いかならむ」と言われ、咄嗟に 
 御簾を高く揚げさせた機知も自慢話の一つ。

 逆に、清少納言にやりこめられた男から恨まれ、舌禍もあったよ
 うだ。冗談がうまく気の利いたしゃべりができる男はつれづれな
 ぐさむものとして挙げている(私は失格(^^;))

 そしてはっきり、宮仕えをよいものとして挙げている。紫式部が
 男性を避け、人前に出なければならない宮仕えをいやな憂きもの
 としていたのとは全く違う。夫が清少納言は存命だった差も見逃
 せないが。

 和歌:あろうことか「歌人元輔の娘だからと、一番先に私に歌を
 詠めというのはやめて下さい」と中宮に言っている。歌に抜群の
 自信があったわけではないらしいことが記述のはしはしから窺え
 る。しかし、こういう歌、返歌をとっさに詠んだという自慢話も
 多い。

 連歌:下の句を先に中宮や男が詠んで、清少納言に上の句を詠ま
 せる場面が数回ある。これも短連歌の仲間だろう。
 
【紫式部と清少納言】
 紫式部が道長の娘、中宮彰子に出仕したのが1005−1013
 年で、清少納言が道隆の娘、中宮定子に出仕したのが、993−
 1000年。両者はすれ違いである。

 清少納言は枕草子の中で、紫式部の夫宣孝について噂話をしてい
 る。吉野の御嶽参詣にわざと派手な服装で出かけ、帰ってきたら
 そのご利益があったのか筑前守に昇進したというレベルではある
 が、それに紫式部は恨みを持っていたらしい。紫式部日記での清
 少納言への酷評もいたしかたないようだ。これこそ筆禍。

 両者才媛。容姿不明。この条件で、紫式部と清少納言のどっちが
 好ましいと思うかと問われれば、私は恥じらいのあるおとなしい
 紫式部と答えるだろう(^^)

■新潮日本古典集成『枕草子 上下』萩谷朴校注

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