2010年2月26日金曜日

俳諧夜明け前ー宗長日記

2006年09月11日17:15

宗長(1448-1532)は、今川家に出仕の後、十八才で出家、大徳寺の一休宗純(1394-1481)に参禅する。大徳寺真珠庵の傍らに住み、宗純没後は宗純が晩年を過ごした山城国薪の酬恩庵に住んで菩提を弔った。

また、宗長は連歌師、宗祇*の弟子となり、宗祇没後は連歌界の指導者となる。晩年は、斎藤安元の援助により遠江国宇津山のふもと丸子泉谷に柴屋軒を結庵、京山城との間を往還した。

日記の内容:
「宗長日記」はその四度の旅を含む日記・紀行(1522-1531)である。

この中に、俳諧の祖と言われる連歌師、山崎宗鑑**も参加した俳諧の話が出てくる。俳諧は当時言い捨てであったが宗長はメモっていたらしい。宗長と宗鑑は師弟関係ではなく交友関係だったようだ。宗長は自分だったらこう付ける、自分の方がいいと自画自賛しているが果たしてどうだろう。

 しもにたつ中間おとこひとりにて
  をひつかんをひつかんとやはしるらん
 高野ひじりのあとのやりもち   宗鑑
 高野ひじりのさきの姫ごぜ    宗長

  碁ばんの上に春は来にけり
 鶯の巣籠りといふつくりもの   宗鑑
 朝がすみすみずみまでは立いらで 宗長

宗祇も宗長も昔の連歌師は俳諧(俳諧之連歌)も好きだったそうである。この時代はまだ俳諧が連歌から独立する前夜であり、連歌師の中に両者が混在していたと言えるだろうか。

『宗長日記』には多くの発句、短歌、長歌、連歌が載っているが心に残ったいくつかを。

 かひがねは雪に時雨るる山路かな

 すみれさく野は幾すぢの春の水

 いくたびか又やはこゆとこえて又
     けふは八十(やそぢ)のさよのなか山

 鹿の音やとを山ばたの夕あらし

 木の間より心づくしはくれ竹の
       すゑ葉にかかる窓の月かげ



参考:
『宗長日記』 島津忠夫校注 岩波書店
ウィキペディア:
http://ja.wikipedia.org/wiki/

*宗祇(1421-1502)
相国寺で出家、30才で連歌を宗砌、専順、心敬に学び頂点を極める。兼載らと准勅撰連歌集の新撰菟玖波集を編む。

**宗鑑(1465?-1553?)
大徳寺の一休宗純に参禅し、宗祇・宗長、荒木田守武らと交友。のち出家して京都山崎に隠棲する。本邦初の俳諧集、犬筑波集(俳諧連歌抄)を編み、守武とともに俳諧の祖と言われる。

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