2010年2月25日木曜日

蕎麦の徒

2006年05月12日18:23

蕪村が書いた『春泥発句集・序』で、春泥舎召波は、麦林・支考を俳魔と呼んでいる。それに対して蕪村は懐の大きいところを見せ、彼らの句法を工案の一助とすればよく、支麦の徒とか、そうののしるなと諭す。彼らの句法とは、美濃派によって全国に広まったが通俗化したという句風や七名八体説、自他伝(北枝)などの俳論のことか。 

また、芭蕉の遺語の偽作は、支考に極まり、芭蕉の没年から離れれば離れるほどひどいと、近年の学者は述べている(校本芭蕉全集 9 芭蕉遺語集 赤羽学)このように、昔も今も評判の悪い支考ではあるが、彼の『芭蕉翁追善之日記』は、芭蕉の臨終や法要の様子が書かれており、偽りはないと信じたい。

その中に「この叟の生前には、唯、蕎麦をのみこのみ給ひて、殊に支考がふつつかにうちなして、ほそやかに手際ならぬをよろこび申されければ、この忌日にもさる事まうけはなしける也」とある。

蕎麦がこよなく好きな芭蕉、へただけど手打ちでもてなす支考。不揃いで、太く短い黒い蕎麦。支考も蕎麦が好きなのだろう。蕎麦好きとしては、支考へ少しポイントをあげたいと思った。


  蕎麦はまだ花でもてなす山路かな  芭蕉

  蕎麦の花まちてやたてる岡の松   支考

  蕎麦笊を干せば匂へる実山椒    春蘭

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