2010年2月25日木曜日

紫式部日記を読む

2006年04月23日21:37

源氏物語を書いた紫式部という人は、どんな人だろう、あれほどの
質の高い小説を書くには余程の才能と人生経験がなければ書き得な
いだろうと思う。その人となりを知るため、紫式部日記を読む。

【紫式部の生い立ち】
誕生は978、973,970年などの説、没年は1016年頃と
言われる。父は越前守、越後守の藤原為時、母は摂津守藤原為信の
娘。同腹の弟、異腹の兄弟がいる。曾祖父に堤中納言と言われた兼
輔がいる。

漢学者の父に男だったらと言わせるほど漢籍にすぐれ、人間の捉え
方や表現方法は漢籍に学んだと言われる。文学の他、音楽(箏)の
才能がある。996年、父について越前武生に行き一年半ほど滞在。

998年、筑前守、山城守藤原宣孝(45才)の永年の求婚に応え
結婚する。999年、賢子(大弐三位)を生むが1001年、夫と
死別する。

このころ源氏物語の名前が他の文献に初出。源氏物語の作者として
才能は世に認められていたようだ。そして、1005年、藤原道長
の娘、中宮彰子に女房兼家庭教師役として出仕する。

【紫式部日記の内容】
紫式部日記は、1008年夏、出産のため里(道長の土御門殿)に
退出している中宮彰子の話から始まる。

物の怪を退散させるため僧、阿闍梨、修験者、陰陽師を総動員し、
関係者でごったがえす中、彰子はめでたく、若宮を生む。道長のこ
の上ない喜び、帝の行幸を得て、一族は我が世の春を謳歌する。こ
のあたりは、紫式部が、道長に頼まれて、日記を書いたのだとする
説も真実味を帯びてくる。日記というより、実況中継のような書き
ぶりである。

しかし、その後に、里で身の憂さを吐露する部分や他人の評論をす
る所があり日記全体を果たして道長が依頼したのか疑問が出てくる。

突然、消息(手紙)風な語り口になり、女房の容姿と才能の評論が
ある。心ばせで完全な人はいないと結論づけ、和泉式部、赤染衛門、
清少納言にも及ぶ。和泉式部は同じ中宮に仕えており、自由奔放で、
知的趣向の伝統的な歌風ではないが見るべきものがあると認めている。

赤染衛門は道長の北の方倫子の女房で、当代一の女流歌人。格別で
はないが風格があると評す。清少納言は、皇后定子の女房で、した
り顔に才学を鼻にかけてはいるが、漢学は不十分と評している。中
宮対皇后もそうだが個人的にも強い対抗意識を持っていたようである。

このあと、じゃぁそういう自分はどうなのか、自省をする。宮仕え
は自分に合っていないこと。心静かに一カ所に安住したい。色々と
心に思うことはあるが、気の合わない人や、言って甲斐のない人に
言っても仕方ないので黙っている。

そうすると才を鼻にかけつんとしたとっつきにくい人と誤解をされる。実際に会って話すと、こんなにおっとりした気さくな人だったのかとみんな驚く。(私の妻も自分について同じことを言っていた。私の妻は、私の紫の上であると同時に紫式部でもあった。(^^))

左衛門の内侍は、前から紫式部を快からず思っていて、帝が「源氏
物語を書いた作者は、日本書紀の知識ももっているようだね」と褒
めたら、内侍は憎らしいと思ったのか、「ひどく才を鼻にかけてい
る」と言いふらし日本紀の局というあだ名がついてしまった。早く
出家とは行かないまでも誦経生活に入りたい。

このあと、実況中継風に戻り、二宮の五十日のお祝いの記事で終わる。

紫式部の宮仕えは8年ほど(1013年)で終わり、退出したらしい。娘の賢子とともに平穏な暮らしに入ったが、2、3年でなくなったと見られている。


  世の中をなに嘆かまし山桜
        花見るほどの心なりせば   紫式部


■紫式部日記・紫式部集 山本利達校注 新潮日本古典集成

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