2010年2月28日日曜日

虚子「連句論」

2007年02月15日18:16
図書館の廃本の中に平井照敏『虚子入門』という本を見つけた。どうしようかと迷ったが持ち帰った。虚子は子規の後継者、去年今年貫く棒の如きものという句ぐらいしか知識がない。どちらかというと食わず嫌いである。

本を読んで子規と虚子には俳句について大きな考え方の相違があることを知った。虚子の方が柔軟かも知れない。いっぱひとからげに考えていたのは間違いだった。代表句が数十出ている。「もの」「ごと」を使った表現が多い。これを評価する人、しない人は当然いることだろう。

次に、タイトルに惹かれて、村松友次『夕顔の花−虚子連句論−』を読んだ。子規は「連俳は文学にあらず」として連句を否定した。しかし、虚子は子規の在世時から連句の文学性を肯定し、「ホトトギス」に持論を載せ続ける。

子規は最初無視していたが、虚子の「俳諧三佳書」(明治三二年十二月)に序を載せ、連句は面白いようだから自分もやって見よう、というとってつけたようなコメントを寄せた。

村松氏の推論では、道灌山での夕顔の花論争(明治二六・夏)と後継者拒否・決裂(明治二八年十二月九日)以来、二人の間に連句については子規の名前で何を書いてもよいという暗黙の了解があったのではないかとしている。虚子が子規の名で序を書いたということになる。

明治三七年九月、虚子は本格的な大部の「連句論」を書く。種々の呼び方を「連句」に統一しようと提唱もしている。二年前に子規は亡くなっている。

道灌山での夕顔の花論争と、虚子の後継者拒否事件は同根というのが村松氏の結論である。夕暮れに、夕顔の花が道灌山の茶店の崖に開きはじめたとき、子規は例によって、写生で夕顔の花の姿態形状だけを詠えばいいと言った。

虚子は同意しつつも夕顔の花から連想・空想される源氏物語などのことやものを一切排除するということは反対であった。これは連想・空想の産物である連句を否定することに等しい。連句を否定する子規は首尾一貫しているといえる。また、連句を文学とみなす虚子も首尾一貫している。

そんなあなたの鋳型にはまりたくないので後継者は辞退しますと虚子は言った。虚子は連句の恩人だった。


谷中探訪には西日暮里の道灌山も入れようかw

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