2010年2月26日金曜日

許六『篇突』と去来『旅寝論』

2006年08月31日18:00

芭蕉没後の元禄十年〜十一年にかけて、許六と去来は『俳諧問答』
で持論を述べあった。その続きとも言うべき、俳論書による問答
が存在する。それは、長崎に帰郷していた去来が許六の『篇突(へ
んつき)』(元禄十一年)を入手し、自分の『旅寝論』(元禄十二
年三月)でコメントしたからである。

さぞ本格的な厳しい論戦がと思いきや、二人の食い違いは不易・流
行/血脈論、句作りの取合せ論を除いてほとんどない。食い違い自
体も相手の一理を認めた感じがあり、お互いに全面否定のニュアン
スではない。両者はあくまで紳士と言えよう。

二人の食い違いの箇所を拾ってみると、まず句の評価。

 うぐひすの身をさかさまに初音哉 其角

去来は、この句を屏風絵でも見た其角の作為とする。許六は、新し
みがあり秀逸とする。

 朝がほのうらを見せけり風の秋  許六

 葛の葉のおもて見せける今朝の霜 芭蕉

許六は自分の句は先師の句の等類ではなく、古人が気づいていない
朝顔の葉うらに着目したことに新しみがあると自賛する。去来は
先師の句のまねで、古人は葛の葉うらと同様、朝顔の葉うらを知
ってはいたが佳と感じなかっただけだとし、新しみはないとする。

<取合せ論>
先師は「発句はとり合せ物也。二つとり合てよくとりはやすを上手
と云也」と言った。許六はこれを句作りの基本原理とし、『俳諧
問答』でも同じことを述べている。

去来によれば、先師は洒堂に対して正反対に近いことを言った。
「汝(洒堂)の発句は皆二つ三つ取合せてのみ句をなす。発句は
只、金を打ちのべたように作るべし。」と。先師は弟子によって
同じ事柄でもニュアンスの違う言い方をすると去来はいい先師は、
前言を悔いたという。前言とは許六が基本原理にしている方。

二つの物(言葉)を取り合わせて句作りするとは、最近の言葉で
は二物衝撃のこと。そして、一物での発句の句作りも去来はある
としている。たとえば、先師の

 いざさらば雪見にころぶところまで ばせを

(この句碑、長命寺で桜餅を食いながら境内で見たことがある。)

<不易・流行論>
許六は、書簡の『俳諧問答』とほぼ同じ内容を載せた。「近年、
不易・流行に自縛して真の俳諧、血脈の筋を取失ふ。血脈相続
して出生すれば不易・流行の形はおのづから備はり。あながちに
不易・流行を貴とするにはあらず。」

去来は、『俳諧問答』にはなかった言葉<あながちに>に気を
よくしたのか、たしかに自縛している人もいるだろうと歩み寄
る。しかし、先師の新風について行くことが善で、其角はでき
るのについてこなかったとまた同じ恨み言を繰り返す。

許六が「師がなくなって新風がもうないのでこれからは不易だ
けだ。」と嘲笑したという言葉が去来の頭をよぎる。

(ここは私の推測)
でもはたと気がついたのか、去来は許六をあまり責めない。た
しかに、今までは先師が次々新風を起こし、それを追えばよか
ったが、師がなくなって追うべき新風はどこから出てくるのか。

自分で日々新しくならなければいけないと言う許六の「昨日の
我に飽ける人こそ上手にはなれり」という言葉に去来は共感す
る。去来は、これを誠にいい言葉だとし、先師の考えもそうだ
ったと言う。

あとがき
芭蕉は許六が彦根に帰る時、有名な「許六離別の詞」(柴門の辞)
を贈った。読むと芭蕉のひとかたならぬ思いが伝わってくる。
「古人の跡をもとめず、古人のもとめたる所をもとめよ」と芭蕉
は許六に言う。許六の論にはこの言葉を守る自力が感じられるが、
去来の論にはまだ古人(芭蕉)の跡を追う他力の立場を感じる。

芭蕉が『俳諧新々式』『大秘伝白砂人集』『俳諧新式極秘伝書』
の三部の秘伝書を許六に伝授したのは事実のようだ。許六が芭蕉
風の血脈相続を自認し、後年「蕉門道統二世」と誇示するように
なったというのも理由のあることであった。秘伝書、どんなもの
か見てみたい。

参考
 篇突・旅寝論、古典俳文学大系『蕉門俳論俳文集』集英社 
 柴門の辞 風俗文選、日本名著全集『俳文俳句集』
 堀切実『芭蕉の門人』

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