2006年08月26日09:22
許六から去来へ
■解釈
千歳不易・一時流行の二つの言葉で、其角の本性をあなた
(去来)が論ずるのは其角の器をよく知らないからです。
其角は生来、物に執着して苦しむ性質はなく、他人から辱
めを受けたことはありません。
従って、あなたの質問状に返事をする言葉を持っていませ
ん。それで質問状をちょっと脚色して自分の撰集『末若葉』
の序としたのです。これは、辱めに対処するすべを知らな
いためです。
そこで私(許六)は三神に誓って、其角を依怙贔屓はせず、
あなたと相撲(問答)することにいたします。
まず、世の中の俳諧集を見て目立つ句の作者はだれかと見
ると、たいてい其角です。彼に及ぶ門弟は見当たりません。
どうしてでしょうか。あなたが、先師の句と同じような俳
風の句を、門弟も作るのが最良のように論ずるのは、かえ
って高弟として間違っていると言えましょう。
私は一つの疑問を持っています。師が亡くなった後、諸門
弟の句で秀逸のものが出ていないのはどうしてでしょう。
近年、湖南や京都の門弟(注:去来ら)は不易流行の二つ
に迷い、さび、しおりに悩まされて真の俳諧をとり失って
いると思います。
私は湖南や京都の門人と句を論じたことがありますが、さ
びがないとよしとは言わず、句のふりがしおりめかないと
句として採用しないという話を聞きました。これは融通の
きかないとても硬直した考え方です。
句はふつつかに見えても、さび・しおりを作為的に考慮し
なくても、それらが自然にそなわってあはれなる句もあり
ます。
私はようやく四十二才になりましたが、血気はいまだに衰
えてはおりません。今の所、句のふりは花やかに見えるで
しょう。しかし老が来るに従って、さびしおりたる句が自
然に求めなくても出て来るでしょう。
作為的に、詞(ことば)を飾り、さび・しおりを作ろうと
するのは、真の俳諧ではないでしょう。ただ、一句の姿に
誹諧があるなら、さび・しおりを表す詞がないからと言っ
て句を捨てるべきではありません。
不易・流行の二つにくらまされると言っているのは、私が
聞いた所では、句の趣向も浮かばず、句づくりも出ていな
い時から、不易の句を作ろう、流行の句を作ろうとする湖
南の作者の話です。
和歌には十体があります。定家・西行が和歌を詠む前に、
どの体で詠もうか考えたということは聞いたことがありま
せん。詠み終わった後に十体のどれに分類されるか明かに
なるのです。結果の分析にすぎません。
もし会の判者が、一々次はなになに体の歌を詠んで下さい
と言ったら、そんな歌道はやりきれないものとなるでしょう。
もともと多くの匠の先達がこしらえてきた不易・流行を理
解できていないなら、俳諧は秀逸にはならないでしょう。
師が在世のとき、私は流行の句と不易の句と分けて案じた
ことなど一度もありません。句ができて師に提出すると、
よければよい、わるければわるいと言われただけです。
よいと言われた句では特にある風格をねらったわけでは
なくても、不易・流行は句の中に自然と表れるものです。
師が亡くなった今日でもやはりそうです。私は不易・流
行がとくにありがたい貴い理念とは考えてきませんでし
た。ただ、よい句を作るひとを上手、名人と言ってはい
けないのでしょうか。
つづく。
次回は、『俳諧問答』の解釈3ー贈落柿舎去来書(2)
許六から去来へ 続
■感想
ここまでの感想は以下です。
不易は基本・伝統で芸の基盤、時が移っても変わらないも
ので、流行は新風、新しみのことだと思います。新風は一
時はやり、消える。その中でも普遍的によいものは不易の
一部として残っていくものでしょう。それがぐるぐる回っ
ていく。
師は次から次へと新しい美的理念/新風を起こして俳風を
変えていく。弟子は、師に気に入られようと思えば訳が分
からなくても必死に追随する。そんな魂胆がないなら共感
できない師の新風に無理に迎合はしない。両方もっとも。
『守(しゅ)』師の型を学び守る、『破(は)』師の型を破る、
『離(り)』師を離れる。これを芭蕉や去来はどう考えてい
たのでしょう。師芭蕉自身の型が変化極まりないので弟子
は、ついていくにしても、傍観する(離れる)にしても戸
惑ったことでしょう。
和歌十体は、詠んだ結果としての和歌の分類だとするのは
共感。俳諧の七名八体などもその類いと感じます。俳句の
百体を定義して喜んでいる現代俳人もネットで見ましたが、
ご苦労様。
新しみは俳諧の命というのは全面的に共感。実践しないと
意味はないですが。
■参考文献
1、『許六 去来 俳諧問答』横沢三郎校注 岩波文庫
1996年復刊
2、『芭蕉俳諧の精神』赤羽学 清水弘文堂 1984年
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