2006年07月03日17:39
■『芭蕉紀行』嵐山光三郎 新潮社 2004年4月
中学の時から芭蕉に傾倒してきた著者は、芭蕉のすべての紀行を追体験する旅に出る。そして聖人化された芭蕉でなく芭蕉の生の人間像に迫る。嘘か誠かは別として印象に残ったことを以下に。
●伊賀で芭蕉の評判を聞いたら、ケチで自分本位、女癖が悪い。しかも美少年好みで弟子の杜国や伊賀の主君蝉吟もそうだった。
●日本橋から深川に移ったのは同居していた甥と妾寿貞が不貞をはたらき、それが世間に知れるとまずいから。
●江戸や名古屋などどこに行っても、パトロンやスポンサーを見つけるのがうまくしたたか。それはお世辞の挨拶句がうまいのにあらわれている。人当たりもいいのだろう。
●句作で師を抜こうとする意気のある俊英其角に、芭蕉は対抗意識を持っていた。其角は師を出し抜いて先に西へ旅に出た。西鶴の大矢数の後見をしたり芭蕉一辺倒ではなかった。
●芭蕉の西への旅、野ざらし紀行は悲壮な覚悟の発句から始まったはずだが、途中から遊山になりちっとも野ざらしじゃない。名古屋のパトロンさがし。
●後年の芭蕉の心は西を向いている。奥の細道も結局Uターンして終点は大垣。新風は名古屋衆と興し、最後は近江衆とともにいた。
●奥の細道に同行した曽良は幕府の密偵である。千住での時間調整、黒羽の2週間滞在は伊達藩と日光奉行の確執問題の調査、36人の弟子の絵で独り後ろ向き、公務で芭蕉の葬儀に出られず。
●紀行文や発句には虚構も多く含まれている。
「魚の目は泪」の魚は一生面倒を見てもらったパトロンの魚問屋杉風のこと。荒海のときに天の川は見えない。閑かさやの蝉は蝉吟のこと。一家に遊女と寝てはいない。。。
●笈の小文は本来秘密であるべき草稿。芭蕉は御法度の米の先物取り引きをして伊良湖に流された杜国(万菊)と再会し、二人で蜜月旅行をした。
●新風の軽みは、其角(江戸)、荷兮(名古屋)、木因(大垣)など多くの弟子から間違えると軽薄につながるなどとして拒否された。芭蕉は、軽みを理解しようとする弟子(近江衆など)を重要視した。行く春を近江の人とおしみける、はその気持ちがあらわれている。
●芭蕉没後、なるべくして蕉門はばらばらに分裂した。
部下を育てたら自分の居場所がなくなり追い出された、という経験のあるひとは、この芭蕉の姿にそれを感じるかもしれない。芭蕉は、自分を必要としている弟子を探す旅を続けているような気がする。軽みや不易流行など新たな理念を持ち出したのもその一環なのかも知れない。芭蕉さんが、なんかかわいそうになってきた。
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